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家を出て行くあなたの背中が僕を拒絶しているようで、声を出せなくなってしまう。
物音1つしない静けさの中にある闇が、自分の所業を責めているように思えてしまう。
自分とあなたとはあまりにも違いすぎて、離れるたびに遠い存在に感じてしまう。
あなたの善意に甘えるたび、あなたの腕から抜け出せなくなってしまう。
行かないで。
1人にしないで。
おいていかないで。
…優しくしないで。
喉元まで出るその言葉は、しかし今の関係を壊してしまいそうで、勇気のない自分はずっと口にできないでいた。
太陽が空を赤く染め、姿をかくすこの時間。
悟浄は1人出かけていく。八戒を残して。
「行ってらっしゃい」
爽やかな笑顔で挨拶する八戒をちらりと見て、悟浄は手を上げることで挨拶を返す。
その後は振り返りもせずまっすぐ前を向いて先を急ぐ彼が、さえぎる木で見えなくなるまで、八戒は笑顔を絶やさぬまま玄関先で見送る。
これが習慣。
確実に姿が見えなくなったとき、八戒は深々とため息をついた。
さきほどまで面に浮かんでいた微笑から、今は冷淡なものへと変わっている。
それは本当に同一人物かと疑ってしまうほどの変化だった。
「…滑稽だ」
これがいつも思うこと。
本当は行ってほしくないくせに、それでも彼を快く見送り、いい人を演じつづける自分。
そんな自分に吐き気がする。
もう1つため息をつくと、誰もいない部屋へと八戒は戻って行く。
狭くもなく大きくもない部屋にコツンと自分の足音が響くたびに、1人だということが実感される。
そう1人。
もうすぐ悟浄と離れるのだと、自分はこれから1人になるんだと、ここ最近はこのときを利用して自分自信にいい聞かせている。
悟浄に助けられ、住まわせてもらい、恋人同士になって。
そんな甘い時間をすごした数ヶ月。
本当にはわかっているのだ。彼が自分をここに住まわせたのを後悔していることも。自分とこういう関係になったことも。いつも何かいいたそうにしているのも。それが別離の言葉だということも。
悟浄は優しいから、まだこの村になれていない自分のことを考えて、口にしない。
そこまでわかっていても自分から切り出さないのは、甘く優しい時間を壊したくないというエゴと自分の弱さ。
全てを見届けているであろう闇が、そんな自分を責めたてる。
自分勝手だと。
彼を解放しろと。
お前は罪を背負っているのだから、幸せにはなれないのだと。
いつの間にか部屋は完全に闇へと変わっていた。
考えに没頭していたようだ。そんなことにも気付かないなんて。
部屋の明かりをつけると、窓ガラスがその光を反射させ、さらに今の自分を映し出す。
冷淡なままの表情をした自分。
それが自分の心。本質。
でなかったら、何人もの人を殺しておきながら、のうのうと今生きているはずがない。
確かにこんな自分を相手にしてくれる方がおかしいのだ。まして罪人なんかを。
ここまでもった方が不思議なくらいだ。
今日も彼は昨日同様、戻ってくるのは朝方だろう。
かっこよく優しい彼を、艶やかな女性達は離そうとはしない。その中の一人の家にでも泊まってくるに違いない。
愛情とか成り行きとかではなく、十中八九、自分と顔を合わせたくないのが理由だろう。
あなたのすがりたくなるような腕で抱き。
あなたの暖かい唇がそれを重ね。
あなたの甘い吐息が体を熱くさせていく。
そして一夜をともにするのだ。
確かに女性は魅力的な存在だと思う。
ときには柔らかく暖かい雰囲気で包み込んで安らぎを与えてくれ、ときには男には持ち得ていない強さでもって支えてくれる。
そんな女性に生まれてきたかったとは思わない。
今までの自分を否定することになるし、悟浄との関係までも否定してしまうことになるから。
でも女性だったら、と思ってしまうことはある。
そうすれば、もしかしたらもう少し長い時間を彼と過ごせたかもしれないから。
今や鏡化している窓にいるもう1人の自分は、つまらなさそうな顔で暗い瞳をした情けない男。
こんな自分と、男の魅力で一杯の悟浄。あまりにも違いすぎる2人。
自分の姿を隠すためにシャッとすばやくカーテンを閉め、窓に寄りかかりぎゅっと手のひらを握り締めるそのてが、八戒の心情を表しているようだった。
自分の醜い過去を知りながら、少しでも一緒にいてくれたことに感謝しなければ。
身も心もボロボロのときに傍にいて、忘れさせてくれた彼。
それだけで充分。
でもあと少しだけ。彼から切り出すまで。そのときはすんなり受け入れるから。
「もう少しだけですから」
偽りの関係も。彼を騙している罪も。この醜い心も。
八戒の寂しげな小さいその声は、誰の受け手もいないまま、宙に漂っていた。
賭けだった。自分自身との賭け。
いつもならこんなに早く帰らない。ましてここ最近では、ご前様が当たり前だった。本当は今日だってそのつもりだったのだ。なのになぜこの時間に帰路についているのかといえば。
「出かけ際のあいつが気になったんだよな」
道に転がった石を蹴飛ばしながら、言い訳がましく悟浄は呟いた。
どこがどうおかしいなどと細かいことは言えないが、漠然とどこかが変だとここ数ヶ月八戒を見てきたこのカンが言っている。だから賭博場に行っても集中力が欠け、女の家に行こうと思ってもやる気が起きなかった。そして結果がこれである。
「俺の理性ちゃんは持ってくれんのかねー」
悟浄の帰宅が遅い理由はこれだった。
以前、一度だけ八戒と最後まで行ったことがあった。自分ももちろんのこと彼も男相手は初めてだった。自分は女と同じようにすればよかったので楽だったが、問題は八戒である。元来違う用途のところを使うので、彼の負担はそうとうのものだったようだ。眉根を寄せ、発せられる声までもが苦しそうで。それでも彼は「大丈夫です」と言い切って自分を受け入れた。
それからというもの、何度か誘おうと思ってもあのときの彼の顔が頭を掠めてしまい、どうしても実行に移すことができずにいた。
あんな顔をさせたくなかった。苦しそうな辛そうな、そんな顔は。
しかし相手は恋人である。正直なところ欲望がないほうがおかしいのだ。だからこそ、彼の顔を見ないよう、姿を見ないよう、夜遅く八戒が安眠している時間に帰ってきていたのだが…。
とにかく今日は賭けである。八戒の傍にいても理性を保っていられるかの、もしかしたら人生最大の賭け。
八戒がここ最近、以前よりも自分と顔を合わせることが少なくなってきたのは知っていた。
本当は言いたかった。
どうして瞳をそらすのかと。
彼の奥に吸い込まれそうな、深い翠の綺麗な瞳を凝視して。
俺を見ろと。
そう言いたかった。
しかし、その言葉が自分の理性を吹き飛ばしそうだったから。
まして「あなたが嫌い」とあの声で言われたらという怖さがあったから。
だから言えなかった。
今までにない弱気に、自分のことながら驚いてしまう。こんな自分もいたんだと。
これが本当の恋愛というのだろうか。したことがないからわからないが…。
家を出てからまだ2時間くらいしか経っていない。
久しぶりに暗闇の中を歩いてきた悟浄の脳裏には、煌煌と道を照らす自宅の灯りが浮かんでいたが、予想外にも灯り1つついておらず、悟浄を拒絶するかのように真っ暗でひっそりとしていた。
出かけているのかとも考えた。しかしあの八戒がこんな遅くに外出するとき考えられなかった。
では病気でもう寝ているのだろうか。
慌ててかけこみたい衝動をぐっとこらえて静かに我が家に足を踏み入れると、他のことには目もくれずに八戒の部屋へと向かう。
「…八戒?…具合でも悪いのか?」
寝ているかもしれない彼を起こさないようにと、悟浄の優しさを乗せた小さな声のその言葉に、八戒はびくっと反応したが、悟浄はそれに気付かなかった。
「……悟浄?」
どうして彼がここに…?いつもならまだ賭博場にはずなのに。それとも自分はいつの間にか寝てしまっていたのだろうか。
チラリとカーテンでさえぎっている窓に目を向ければ、まだ陽は指し込んでもいなければ、鳥のさえずりさえもない。やはり早く帰ってきたようだ。
どうして会いたくないときにかぎって、彼は早く帰ってきてしまうのだろう。
そこで八戒は納得した。
ああ、今日が潮時なのか、と。
「いえ。眠たかっただけですよ。具合は悪くありません」
「そっか。悪かったな、起こして。おやすみ」
「悟浄。ご飯は食べてきました?」
「まだ。てきとーに食うわ」
「じゃあ、支度しますよ」
「いい、いい。自分でそれくらいやるし」
そんなに優しくしないで欲しい。別れが辛くなるから。
せっかくした決心が揺らいでしまうから。
「大丈夫ですよ。目、覚めましたし」
あなたに作る食事は、これが最後かもしれないから。
子供好きで面倒見のいい八戒は、孤児院を出るまでずっと下の子供たちに食事を作っていた。別にそれが嫌だというわけではない。むしろ楽しいほうだった。自分の作ったものを、素直な子供たちが満面の笑みで美味しいと言って食べてくれる。それはとても嬉しいことだ。
だがあるときふと思った。
これが愛する人だったらと。
愛する人に心を込めて作り、愛する人と食卓を囲む。
想像しただけで、幸せを絵にしたような光景だった。
だからそれは八戒にとって特別なことだった。そして、八戒の願い。
それを最後の悟浄との思い出にと、キッチンへ消えていく八戒。
カタコトと食事の支度をしている音を聞きながら、悟浄は何も手伝わずに椅子に腰掛け目を瞑り、八戒の姿を想像してみたりする。
悟浄のお気に入りの1つだった。
それが心を穏やかにさせたのもあるが、八戒の姿が見えないこともあっただろう。
今なら拒絶や嫌悪など、どんなことを彼から言われようとも、すんなりと受け入れられる気がした。
「…なあ、八戒」
「何です?」
「お前このところ、俺のことさけてない?」
ピタリと音がやんだ。
カチコチと時計の音だけがみょうに室内に響き、時の流れを征している。
いつまでたっても始まらない物音と、八戒の返事がないことを不信に思い、悟浄は椅子から離れるとキッチンを覗き込んだ。
八戒は支度の手を休め、こちらに背を向けて俯き、シンクタンクに両手を置いて体を支えている。
「八戒?」
やはり具合が悪いのだろうか。
「悟浄。あなたはずるい方ですね」
「は?」
「僕に別れの言葉を言わせる気ですか?」
何の感情も読み取れない無機質な声で綴る八戒の言葉は、悟浄にはまるでわからないものだった。
「何言ってんだ、お前」
その声に反応してか、八戒が勢いよく振りかえる。その顔は今にも泣き出しそうなものだった。
何でそんな顔をしてる?
何の話しをしてるんだ?
ちゃんと説明してほしい。
しかし、そんな悟浄の希望も八戒はまったく気付いていないようだった。いつも1歩ひいて物事を考え発言する彼にはとても思えない。
「さけてたのはあなたの方じゃないですか」
だめだ。
八戒の心がそう叫んでいた。
まさかそう言ってくるとは思わなかった。
「目を合わそうともしない。僕と話しをしようとしない。夜は遅く帰ってくる。さけてる以外に考えられません」
せきを切ったように出てくる言葉を、八戒は自分でも止められなかった。
「あなたがいない夜、どれほど僕が辛かったかわかりますか。傍にいて欲しいのにあなたはいない。あなは近くにいるはずなのに、恋人のはずなのに、遠い存在に感じてしまう。それでもあなたは帰ってきてくれるんじゃないかと…僕のもとに戻ってきて欲しいと、そう思っていたのに。いつまでも実現できないその願いが無理だとわかって、やっと、あなたからの別れの言葉をすんなり受け入れられる気がしたのに…」
静かに八戒の頬に、一筋涙が道を作った。
「…なのに、僕にそれを言わせるんですね……」
ぐいっとその涙を八戒はぬぐう。
「わかりました」
八戒の口から出るその続きが何なのかは、言われなくても簡単に理解できた。
言葉になるよりも早く、悟浄は八戒の口を己のそれでふさいでしまう。
もうこれ以上辛い思いをさせないために。
己の言葉が足りないばかりに、軽率な行動をしたばかりに、彼は離別という悲しいことまで考えていたなんて。
自分から離れてしまう八戒の心に、もう一度近づけるために。
深くなく浅くもなく、時間をかけてゆっくりと。
静かに唇を離すと、八戒を抱き寄せる。
「俺がお前と別れるわけねーだろ。反対ならわかっけど」
「じゃあ、どうして…」
「話しをしなかったのは、それこそお前に別れ話を持ちかけられっかと思ったからだ。こんな俺に愛想つかしそうだしな。夜遅く帰ってきてたのは…夜、お前といるとやりたくなんだよ。目を合わすと、その衝動を止められなくなっちまう。だから、悪ぃ。さけてたのは事実だ。でもあのときお前が辛そうだったから、もうこれ以上あんな顔させる奴は許せなかった。例えそれが俺でもな」
「そんなこと…。辛くないと言えば嘘になります。でも好きな人だからこそ、それも我慢できるんでしょう。あのとき僕は大丈夫と言ったはずです。なのにあなたは信じてくれなかったんですか?」
「お前の大丈夫は信じらんねーよ」
「酷い言いぐさですね」
悟浄の肩には暖かい息の他に、だんだんと濡れ感触が広がっていった。
「大丈夫ですから…今夜はあなたを感じさせてください。…そのかわり…」
八戒には言いたい言葉がたくさんあった。
行かないで。1人にしないで。おいていかないで。優しくしないで。
その言葉も今はもう必要ないだろう。
悟浄にも言いたい言葉がたくさんあった。
どうして瞳をそらすのか。俺を見ろ。
その言葉も必要ない。
人の心は読めないし、見ることもできない。言ってくれないとわからない。
しかし近ければ近いほど感じることはできるだろう。
まずは近づくこと。そして離れないこと。
「ずっと近くにいてください。離れないで…」
「喜んで」
それは八戒の希望。悟浄の希望。
少しの時間離れてしまっていた恋人同士の心は、以前よりも近づいていたようだった。
END