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八戒が行ってしまった。
今まで彼がいたからと言って特別何かをしていたわけではなかったので、彼がいなくなり元の生活に戻ったとしても、やはりそれまでとはなんら変わりなく時間が流れている。
仕事、食事、猿の世話。
ただそこに八戒の姿がないだけだった。
それは八戒が悟浄の家に行くと言った時点でわかっていたことだったし、彼が悟能から八戒という名に変わるためここを出たときと同じなので、この先なんの変化もないことを疑う余地などまったくなかった。
それなのに。ほんの少しずつではあるが、その考えが間違っていたことを認めざるを得なくなった。
以前なら、机に向かって三蔵が仕事をしていると。
「お仕事熱心なのもいいですが、たまには生き抜きも必要ですよ」
そう言って机の上には彼が煎れてくれたお茶が置かれる。
ふわんという暖かさと、渋みの香りが漂ってきて、それにつられた三蔵は、持っていたペンを置いてお茶に手を伸ばす。
自分の好みにあわされたそのお茶を一口含むたびに、いつも思うのだ。うまい、と。
その「うまい」にほどされて八戒の思惑通り、そのまま生き抜きへと突入する。
ところが。
彼がいない今、カチャと扉が開けられた音で視線をそちらに向けてみれば、そこにはお茶を持った若い僧侶が立っていた。彼らなりの気配りから、仕事の邪魔にならないよう注意を払って置かれたお茶を一口含むが、すぐに仕事を再開してしまうのが常である。
そんなとき思うことは、彼が自分の好みに合わせて煎れてくれていたのか、それとも彼が煎れるお茶が自分の好みなのかという疑問。はっきりとした答えは何度か繰返した今でも出てきていないが、どちらにしろ、自分は八戒が煎れてくれたお茶が一番好きだったという結論には達していた。
その他には、どたどたと騒音を立てて遊びから戻ってきた悟空が、これまた大きな音を立てて自分の背丈の倍ほどありそうな扉を開けると、大声で主張する。
「八戒、腹減ったー!」
もちろんそれに答えるのはいつも八戒で、三蔵はてんで無視状態である。
彼は必ず悟空が戻るころを見計らって、おやつの用意をしてくれていたのだ。
そして。
「おかえりなさい」
暖かい笑顔でお出迎えをしてくれる。
机の上にはお菓子の数々。それを悟空が頬張っている間に、彼は飲み物をいれてくれる。
「おいしいですか?」
との八戒の問いかけには、悟空は満足そうに、そして至極幸せそうな笑顔で元気良く返事をする。
「うんっ!」
すると八戒は笑顔を深めて答えてくれるのだ。
ところが彼がいない今、返事が返ってくるはずがなく。
「…そっか、いないんだっけ」
そう小さく寂しげに呟いた悟空の言葉に、やっと三蔵自身もまた、彼がいない事実に気付いたりするのだった。
それ以外にも、机の上に束になって積み重ねられた書類をがむしゃらになって処理していたとき、ずっと動かしていた手を止めてチラリと残量を確認してみれば、まだ半分近くそこには書類が重ねられていた。
予想以上にてこずっていることに苛立ちを感じた三蔵は、まだ仕事の途中でひと区切りさえもついていないというのに、部屋を出ると気分転換に庭を目指す。
長い廊下を進んでいき、擦れ違う僧侶には関心を向けず、ただ彼が目指すのは外。
三蔵のお気に入りの、新緑あふれんばかりの庭に有るあの低位置を目指す。
その途中、先の少し開いた扉から若い僧侶の話し声が漏れ、三蔵の耳に届いた。
どうやら話題は八戒のことのようで、頭の固すぎるオヤジどもは疎ましく思っていたようだが、まだ若い者たちは彼らほど頭が堅くないらしく、話しの内容からその場にいる全員が彼を慕っていたようだった。今も「会えないのが寂しい」などと数人で話をしている。
たしかに彼の性格なら、当然のことだろう。それに彼が心を許してくれば少しずつ本来持つ毒がちらほらと見え隠れしてくるが、根は人当たりがよく、本当に大罪人なのかと疑いたくなるほど、人当たりの良い優男なのだから。
外の降り注ぐ眩しいほどの光りに目を一瞬細めたが、それでも止ることなく庭に出て、通路をぶらぶらと歩いていく。
目指すお気に入りの場所は1本の樹木の元。そこに辿りつくと幹に寄りかかり、懐から愛用のマルボロを取り出して火を付けた。
足元で列を作って一生懸命勤労している蟻の集団に目をやったまま煙を数度吐き出すと、なんとなく気分が落ち着いてきたような気がしてくる。
できた余裕で、煙草を咥えたまま視線を上げた。
先に見えるは小さな茂み。それ以外は何もない、ただの変哲もないところなのに、三蔵は何かを見つけたようにそこから視線を動かさない。
実は茂みに隠れこちらからは見えないが、小さくか弱い新芽が出ているのだ。
それは八戒がここにきたばかりの、まだ名も悟能だったころのこと。彼が悟空に連れられて庭に出たときに偶然にも見つけたものだった。それは誰かに気付かず踏まれてしまいそうなほど、それはそれはあまりにも小さかったので、掌ほどの大きな石を2人で慌てて何個も捜してくると、新芽を守るかのように周りを囲ってやった。
それからというもの、八戒の水やりは毎日行われた。
公務の合間をぬって、こうして三蔵がタバコを吸っていると、大抵同じ時間に嬉しそうに水をあげている彼の姿が目に止る。その彼を何も考えることなく見つめていると、視線に気付くのかこちらを振り返って極上の笑みを向けてくるのだ。
しかし今は彼の姿を見ることすら適わず、彼の笑みなど高望みもいいところだった。
過ぎた時間を懐かしむ自分に嫌気が差して、まだ半分も減っていない煙草の火を消すと、三蔵は苛々しげに舌打ちし、過去さえも切り捨てるように茂みに背を向けるとその場を立ち去る。
とても短い時間で、人の心に姿を強く印象づけさせた彼。
消えることのない残影。
『おかえりなさい』
微笑む彼。
『少しは休んで下さい』
怒ったような表情の彼。
『三蔵…』
極上の笑みを向ける彼。
彼を振り返る人に小さな何かを胸に残させる。
それは何か。
喜や負などの強いものではなかったが、すぐに消えることもないそれ。
三蔵がずっと隠していたそれ。
『もうあなたに会えないのは寂しいですが…』
別れ間際、本心で言っているように寂しげな表情で言った彼。
そう誰もが寂しいのだ。
彼がいなくなったことが。彼に会えないことが。
そしてそれは自分も同じで。
…会いたい。
うっすらと浮かんできた気持ちがだんだんと集結し、はっきりとした形を形成していく。
そしてそのときになって、ようやく三蔵は気付きたくなかった想いを認めたのだった。
とたんに願望が欲望へと変わっていく。
会いたい。
三蔵は1つ先の角を反対へと曲がると、急遽外へと足を向けた。
僧侶たちが何事かと遠巻きに彼を見つめる中、いつもの近寄りがたい雰囲気を数倍に強めて寺院を後にする。
他人を拒むような大きな重々しい門を潜り、八戒の元へと急ぐため下に伸びる何段もの石段を1つ降りたとき、背中に感じた微かな視線に三蔵は振り返った。
「…何してやがる」
そこには三蔵を見つめる八戒の姿があった。
周りに同化するようにひっそりと佇む彼は、まるで三蔵に自分の存在を悟られないようにしているようだ。
「お前、もし俺が気付かなかったら、そのままにしてただろう?」
「そんなことはないです。どうやってあなたを呼ぼうかと考えていたときに現れたものだから、驚いていただけですよ」
驚いたのは確かかもしれない。だが先を急ぐ自分を見て、声をかけずに見送って無言で立ち去っていただろうことは明白だ。
「なぜ勝手に入いらん」
「何となく入りづらかったもので…」
以前ほんのつかの間とは言えどもここにいた事実があるだけに、三蔵が八戒の答えで眉根を寄せたのを見て八戒は苦笑する。
「で、何の用だ?」
「…あのですね…それが……」
彼らしくないはっきりしない物言いに、三蔵の眉間にはしわが増えるばかりである。
何かを言おうとしているのか、それとも言いにくいのか。しかし見ようによっては、未だ何かを悩んでいるといったところのようでもあった。
彼は諦めたように一つ溜め息を付くと口を開いた。
「…用事はありません。ただ…会いたかったんです、どうしても。あなたに…」
忙しいあなたには迷惑かもしれませんがと付け足す八戒の言葉を、三蔵は信じられないように聞いていた。
彼も同じだったのだ。ましてやわざわざここまで足を運ぶほどに、それは強い想いだということ。
「…八戒」
「はい?」
「お前、あの新芽、どうするつもりだ?」
突然違う話題に戸惑ったのは八戒で、少し頬を染めたまま、それでも律儀に三蔵の問いに答える。
「悟空にちゃんとお水あげるように言っておきましたけど?」
「見たことねえな」
「あ、やっぱり」
「あの馬鹿に期待する方がどうかしてる。そういうことはてめえでやれ」
「僕ですか?でもここまでくるのに時間かかるんですよね。それならどなたかに頼んで…」
「却下、だな。これでも僧侶ってのは暇じゃねえんだよ。俺を含めてな」
「それなら…」
三蔵は懐からたばこを取り出すと、煙を吐き出しながら言葉を綴った。
「別に毎日水をやらなくてもいいんだろう?なら朝早く来て夜更けに帰ればいい。その間、ここで羽でも伸ばしてろ」
「それって…」
数少ない言葉ではあるけれど含まれている意味合いはとても多く、その中のどれほどかまではわからないがそれでも重要なことだけは理解してくれたようだった。
八戒はそれ以上言葉を綴らなかった。
ふふ、と口許に乗せられた暖かな笑みは顔全体へと広がっていき、極上の笑みへと変わっていく。
だんだんとほころぶ笑顔は魅力的で。
あまりにも綺麗なそれは瞳に焼き付いて離れなくて。
「そうですね」
瞳を離させないその笑顔で語られた返事さえもがとても暖かく、それはそれは嬉しそうな声音だった。
三蔵は石段を一段上ると、門をくぐり寺の敷地内へと1人入っていく。
そして振り返り、きっちりと八戒の瞳を見据えて。
「…いくぞ」
「はいっ」
振り返れば彼がいて。
呼びかければ笑顔で答える。
それは戻ることができないはずの、過去のときと同じもので。
三蔵は新緑で萌えるお気に入りの木の下で煙をくゆらせながら、新芽に水をやる八戒の姿を見つめ、沸きあがる彼への想いを秘めながら、三蔵はとある事実に気がついた。
お気に入りであるこの場所。
どうして自分がこの場所を気に入ったのか。それはきっとここから彼を見ることができるからだろう。
青い空と。美しい緑と。緩やかな風。そして包み込む陽の光りが、お気に入りの彼の笑顔を一段と素敵なものにしてくれるからだろう。
八戒が振り返る。
如雨露からのシャワーでつくる虹が消える。
そして三蔵が目下一番のお気に入りである、彼の笑顔が向けられた。
今日は彼に驚かさせてしまったが、次回彼がきたときには自分が驚かせてみよう。
お気に入りのこの場所で。
お気に入りの笑顔を見た後で。
自分の想いを言葉にしてみよう。
『お前を愛してる』
そっと彼に触れながら。
END