ただ聞くよりほかなき教え

阿弥陀経に学ぶ 第1回

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同朋新聞に連載された仲野良俊師・柘植闡英師の講話です。

この経は無問自説経ともうす

 ▽はじめに△
 今回から大切なお経の中で私たちに特になじみの深い『阿弥陀経』について、私自身が教えられたところをお伝えしたいと思います。

 宗祖親鸞聖人は非常に数多いお経の中から、わが浄土真宗のもとになるお経として、三つのお経を選ばれました。これが三部経、詳しくいうと「浄土三部経」、つまり『無量寿経』、『観無量寿経』、それにこの『阿弥陀経』であります。

 もちろん、この三部経は、お念仏が説かれているということでは皆同じですが、しかし皆それぞれに特徴があります。ほとんどの一お経は、どのお経でも三つの部分に分かれていて、最初が「序分」と呼ばれて、一般の書物では序文、あるいは前書きに当たり、まん中が「正宗分」といわれて、これは本文に当たります。後には「流通分」といって、あとがきのようなものがついています。

 三つのお経の内容はお念仏であることは一つであっても、説き方が違うというところに特徴があるのですから、正宗分、つまり中心になっている本文に違いのあることはもちろんで、それについては本文に入ったところで、いろいろお話しせねばなりませんが、それは後のことにして、初めの序分が違う点でこの『阿弥陀経』の特徴が見事にあらわされているということを、はっきりと受け取られたのが聖人であります。
 というのは序分には二通りの形式があって、一つは通序、もう一つは別序と呼ばれていえす。
 通というのは一般的という意味で、どのお経にも必ずついている同じ形式(内容はお経によって違う)の序分で、別というのは特別ということで、そのお経独特の意味をあらわした序分であります。これはそのお経が説かれる機縁というものがあらわされていまして、例えばこんな出来事が起こったとか、こんなことをお尋ねした人があったという、お経の説かれた因縁があらわされているものであります。

 『無量寿経』にも『観無量寿経』にも、それぞれの機縁がありますから、長い別序がついています。ところがこの『阿弥陀経』にはそれがありません。私たちはよく、無いからつまらぬ、大したものでないと考えがちですが、仏法は無いことを大切に考えます。無事ということでもあり、何か大事なことができたのはさまたげが無かったからでしょう。

 これとはまた違った面で無いことの大切な意義を鋭く見抜いて、この『阿弥陀経』にこもっている大事なお釈迦さまの心を、しっかりと押さえられたのは、わが親鸞聖人だけであります。

 特別の序文が無いということは、お経を説かれる機縁というものが、外から催していないということで、何事も起こっておらず、また誰もお釈迦さまにお尋ね申し上げていないということであります。聖人のお書きになったものの中に「お暇名聖教」というものがありますが、一その一つに『一念多念文意』というのがあってそこでこのことが取り上げられています。

 この経は無問自説経ともうす。この経を説きたまいしに、如来に問いたてまつる人もなし。これすなわち、釈尊出世の本懐をあらわさんとおぼしめすゆえに、無問自説ともうすなり

 このように述べておられますが、お釈迦さまに誰も何も訊ねなかったということが無問、ご自身の気持が動いてお説きになったというのが自説ということでしょう。だから聖人はそこを押さえて、お釈迦さまがこの世にお出ましになった最高の目的(出世の本懐)、それをあらわされたお経であるから「無問自説経」と申すのである、といわれたのであります。説かずにはおれなかったもの、この世にお出ましになった大事な意味、どうしても言い残こしたいこと、それがこの『阿弥陀経』に込められていると見抜かれたのであります。

 特にこのお経は昔から、三部経の最後のお経、結経、遺言にも当たるお経だというように受け取られてきました。仏さまですから遺言と呼はずに遺教と申します。従って遺教経という意味になり、私たちお念仏の道を歩むものは、そのように受け取って参りました。 短いお経です。『無量寿経』に比べると六分の一ほど、『観無量寿経』に比べても三分の一ほどの分量ですが、短いながらも非常に大切な意味を持ったお経として聖人は尊んでいられます。

 できることなら私たちも、このお経が少しずつでも読めるようになり自分にとって大事なことを教えてもらえるように心掛けたいものであります。