ベルトラン・ガショー
1962年生まれ ベルギー人
 
1983年 ウィンフィールド・レーシングスクール 1984年ベルギー&ベンルクスFフォード1600シリーズ参戦 ブランズハッチFフォードフェスティバル3位 1985年RAC/TTイギリスFフォードチャンピオン 1986年イギリスFフォード2000チャンピオン・ヨーロッパFフォード2000シリーズ2位 1987年イギリスF3シリーズ2位 1988年ヨーロッパF3000シリーズ5位
 89年オニクスからデビュー。EU(ヨーロッパ連合)の重役である父を持つ恵まれたドライバーである。
 オニックス、リアル、コローニ、ジョーダン、ラルース、1回休み、パシフィック。F1デビューしてかれこれ7年にもなるベルトラン・ガショーは、まるですごろくのように下位チームを渡り歩いてきた。
 デビュー当時のオニックスで予備予選落ち6回、予選落ち1回、シーズン終盤に移籍−リアルで予選落ち2回。つまりデビュー・イヤーは、わずかに5戦しか決勝に出ていない。しかも翌年のコローニでは10回の予備予選落ちと6回の予選落ち、決勝には一度だって顔を出していないのである。
 このドライバーが速いのか、才能があるのか、果たしてF1を走る力があるのか。周囲の批判のボルテージは上がる一方だったが、そんな彼に千載一遇のチャンスが訪れたのは91年のことである。この年から参戦したジョーダンに乗るチャンスが巡ってきたのだ。チームメイトはベテランのアンドレア・チェザリスであり、やっとのことでまともなマシンを与えられた彼は、自分の力を証明する走りを、あちこちのサーキットで展開することになる。
 カナダGP5位、イギリスGP6位、ドイツGP6位。周囲の評価を変えるには十分な成績だった。ガショーの名は一躍中堅クラスに位置づけられ、ライバルたちも存在を認め始めた。ところが、これから表彰台さえもねらおうかという意欲に満ちていた矢先、ロンドンのタクシ−ドライバーとの一件(護身に催涙ガスを使ったことから裁判沙汰となった)で監獄に入るという奇妙なキャリアを積むことになり、その代役としてM・シューマッハーが登場、いきなり予選7位を記録して一躍F1界の風雲児となったため、完全にガショーの立場はなくなってしまった。当然、戻ってきたF1フィールドにジョーダンのシートはなかった。
 残念ながらガショーのキャリアはここで終わってしまったと言わざるを得ない。92年こそ、ドライバーの力量が試されるモナコで6位に入賞し、健在ぶりをアピールしたものの、12回のりタイヤを喫して翌年はF1浪人。94年から参画したパシフィックでは11回の予選落ち。参加台数が少なく、予選落ちのなくなった95年も最後尾をウロウロしていた。結局出走11戦中、わずか2回しか完走していない。
 パシフィックに関わってからのガショーは明らかに、レースよりもビジネスの方に主眼を置いていたようだ。かつての激しい闘争心は鳴りをひそめ、レースはそこそこにこなしながらチーム運営にも携わっていた。そのパシフィックも、もう存在しないのだが。
 F1以外では、第59回ル・マン24時間耐久レースで、 マツダ787Bが日本車史上初の総合優勝をしたときの優勝ドライバーとなった。(マツダ787B55号車(バイドラー/ハーバード/ガショー組))
成績
Gachot
F1 Drivers : Bertrand Gachot  BERTRAND GACHOT



ベッペ・ガビアーニ
[イタリア・1957年1月2日]
3戦 最高位:完走なし 予選20位 

 ‘70年代後半ヨーロッパで注目されていた若手有望株のひとりで、カート・F3・F2でそこそこ名を売っていた、ちょっとキザな感じのイタリア人。目が隠れる程に長い髪が印象的だった。
 一度聞いたら耳に残る名前だが『ベッペ』は『ジョゼッペ』の愛称らしい。

 日本のレースファンには‘79年のJAF GP(F2)で和田孝夫選手を病院送りにした事で悪名高し。
 一応この年の鈴鹿F2でも勝利しているのだが、星野大先生の勘違いの結果といういわく付き。その後1986年には童夢・トヨタ(Gr.C)で全日本耐久選手権やル・マン24時間にも出場 。

 F1にはまず1978年終盤にサーティスから2戦挑戦(モンツァで重傷を負ったブランビラの代役)するが予選落ち。マーチ・ワークスで欧F2を走っていた‘79年の後半にはティレルに大金を持ち込んでシートを得ようとするが、ケン御大に断られている。
 ‘80年はマウラーでF2を戦い、1981年にようやくオゼーラのレギュラーシートを得るが予選落ちの嵐であった。
 F1はそれっきりで、その後一時期欧F2で絶好調の時期もあったがタイトルには結びつかず。

 活動初期にはそれなりの期待も持たれたが、結局その他大勢のイタリア人ドライバーの一人に落ち着く。速いには速いがちょっと荒っぽいという印象か。(但し速さも荒さもチェザリスが一枚も二枚も上手…)

(BT)
{Special Thanks : Mr.MCS-5 with菜ナス軍団日記 for Web版 のゲストの皆さん}



アレックス・カフィ

1964年生まれ イタリア人 1982年イタリアFアバルトシリーズ3位 1983年イタリアFアバルトシリーズ2位 1984年イタリアF2シリーズ2位
 ダラーラ時代から予選が速く、その走りは高く評価され、将来のフェラーリドライバーとして目されたこともあるくらい有望なドライバーであった。
 その後アロウズに移籍し、アルボレートとコンビを組む。そこでは、同僚をしばしば凌ぐ走りを見せたが、病気を患い入院。その後夜遊びが元で信用を失いF1を降りることになったそうだ。
成績
Caffi
Caffi, Alex  Alex Caffi



イヴァン・カペリ
1963年生まれ イタリア人 1983年イタリアF3王者 1984年イタリア/ヨーロッパF3王者 1986年ヨーロッパF3000王者

 88年〜90年シーズン(特に88年)の多くのレースで、このイタリア人ドライバーは光って見えた。というのも、88年ポルトガルGPや、日本GPで、ノンターボのジャッドエンジンであるにもかかわらず、当時最高のマシン、エンジン、ドライバーを有するマクラーレンホンダを抜いたからである。(日本GPではその後すぐ抜き返され、結局マシントラブルデリタイヤとなったが)また、90年フランスGPでも、レースの最後までトップを快走し2位表彰台を獲得するなど、アルボレートに次ぐイタリア人エースになることを期待する人も多かったのである。そして、カペリはレイトン撤退の翌年、アルボレートに次ぐ久々のイタリア人ファラーリドライバーに抜擢された。しかし、イタリア人のため過大なプレッシャーを受けてしまい、成績はメロメロ。シーズン途中でクビとなった。その後ジョーダンに移籍するものの、当時チームメイトであった若手最速のブラジル人ドライバー、ルーベンス・バリチェロと比較してあまりにも遅かったため、ほどなくF1界から姿を消すこととなった。
 「もし、この世界が才能だけで勝ちあがっていけるのなら、カペリは間違いなく既にチャンピオンになっているだろう。」これはカペリがフェラーリに入る前に、ニキ・ラウダがカペリのことを評した有名な言葉である。彼以外にも、新人のころからカペリの才能を評価する人は多かった。しかし、この言葉を逆にいうと「才能だけではワールドチャンピオンになれない」というF1の厳しさを示唆している。
では、カペリになにが足りなかったのだろうか?
 カペリは多くのF1ドライバーと同じくカートとともに育ち、14歳でイタリアのジュニアチャンピオンを獲得、その後20歳でイタリアF3チャンピオン、21歳で欧州F3チャンピオンとF1ドライバーへの王道を歩んできたまさにえりーとであった。85年の後半にティレルに認められF1デビュー。終盤2戦だけだったが、最終戦で何と4位入賞を果たしてしまう。まさに順風満帆。しかし、翌年金銭面でF1シートを得ることができず国際F3000に舞い戻る。それでも資金不足で不安定なマシンをねじ伏せ、何と国際F3000を制してしまうのである。この活躍がレイトンハウスの目にとまり、87年からF1フル参戦。そして翌年88年にその才能が一気に開花したのである。その後チーム体制は不安定で、成績にも波があったが、レイトンハウスのスタッフとは家族同然の絆ができていた。だから他の有力チームからの誘いも断ってきたのである。彼は家族、仲間との絆を選択した。それがラウダの指摘するところであった。カペリは日本流で言うと、義理人情に厚く、人との出会い、絆を大切にするすばらしい人間性をもっていたのだが、F1で大成するにはすばらしすぎたのである。彼が成功するには、ある種の狡猾さ、エゴが必要だったのだろう。
 結局、今となってはレイトンの頃のカペリですら、速いドライバーだったかどうかは疑わしいという意見も出てきている。というのも、当時のレイトンのマシンデザイナーは今をときめくエイドリアン・ニューウエイだからである。つまり、レイトンハウスのマシンは誰が乗ってもそこそこいい結果を残せた可能性が大きいのである。
成績
Ivan Capelli
Capelli, Ivan  Ivan Capelli



エイドリアン・カンポス

 スペイン人ドライバーである。
 地元スペインGP出場を果たしたスペイン人ドライバーは5人を数えるが、彼はその1人である。
 その5人とは、パコ・ゴディア(1951年と1954年)、アレックス・ソレル・ロイグ(1971年と1972年)、エミロ・ド・ビロタ(1976年−78年)、エイドリアン・カンポス(1987年)、そしてルイズ・ぺレス・サラ(1988年−89年)である。
成績
Campos
Campos, Adrian



片山右京
 中嶋、鈴木に次ぐ日本人3人目のドライバーで、92年ラルースからデビュー。いきなりカナダGPで5位を快走するなど、時折いい走りをするもマシンに恵まれず、翌年ティレルに移籍。93年はマシンバランスが悪くほとんどリタイヤだった。
 彼のピークはその翌年94年である。チームにも慣れ、ヤマハエンジンの熟成もあってか6度のシングルグリッドを獲得し、入賞3回を重ねたのである。この活躍によりベネトンなどのトップチームからオファーが入るが、スポンサーとの交渉がうまくいかず、それを蹴った形になってしまったことは、彼のF1人生最大の失敗だったと思う。それ以降彼が入賞することもなかった。
 成績
 KatayamaF1 World  Ykyo Katayama  Ukyo KATAYAMA



ルパート・キーガン
[イギリス・1955年2月26日生] 
25戦 ※他に1戦決勝不出走あり 最高位:決勝7位  予選13位  

 70年代の終わりから80年代の始めにかけてF1に挑戦していたお金持ちのイギリス人。当時航空会社(BAF=ブリテッシュ・エア・フェリー)を経営する父親のバック・アップで走っていた、いわゆる『御曹子(ボンボン)』ドライバーだった。
 特に成績は残していないが、この時代頻繁に目にした名前。

 1977年、弱冠22歳でヘスケスからデビュー。年令とマシンを考えると健闘。ベスト・リザルトはいずれもこの年に記録している。
 翌78年はサーティースから挑戦するが苦戦。(ちなみに77年がPENTHOUSEのウエイトレス柄、78年は避妊具のdurexカラーというのが凄い)

 1年休んで1980年はRAMから前年モデルのウイリアムズFW07を駆って出走。また1年置いて1982年の途中からマーチ(運営は、やはりRAM)で走る。

 昔も今も数多く存在する『ペイ・ドライバー』の一人だが、本場から見れば日本人F1ドライバーの多くもそう思われているのかと考えると複雑な心境になる。そういう観点から考えれば、彼を含めこの種のドライバーを見る目も違ってくるのでは。(B級ファンなら特に)

(BT)



アンドレア・キエーザ
1964年生まれ イタリア人 84年イタリアF3参戦 87年イタリアF3で3勝を挙げシリーズ2位、88年〜91年国際F3000参戦 
 キエーザもイタリアの家庭用洗剤がスポンサーに付き、お金で92年のフォンドメタルのシートを獲得したペイイングドライバーである。しかし、シートは手に入れても勝利は買えない。非力なマシンながら奮闘するもむなしくシーズン途中で解雇されてしまった。チームを解雇されたときには、自分に責任はないとばかりに抗議文を発表。なんとも後味の悪い幕引きとなった。
成績



ピエルカルロ・ギンザーニ

1952年生まれ イタリア人 1977年ヨーロッパF3王者 1979年イタリアF3王者 ヘンリー・モロー レーシングドライバースクール出身
 オゼッラを最も多くドライブしたドライバー。オゼッラ、リジェ、トールマンなどを渡り歩いた。目立った成績は残せなかったが、古き良き時代の面影を残したドライバーであった。引退後はオゼッラ・チームの経営に参画していた。
成績
Piercarlo Ghinzani



マウリシオ・.グージェルミン

1963年生まれ ブラジル人 1984年ヨーロッパFフォード王者 1985年イギリスF3王者 1986年ヨーロッパF3000シリーズ12位 1987年ヨーロッパF3000シリーズ4位
 陽気なブラジル人で、セナの元ルームメイトでも有名な資産家である。カートを始めたのが8歳のとき。1980年にブラジルのカート・チャンピオンとなったのを皮切りに、81年ブラジ ルのフォーミュラ・フィアットのチャンピオン、82年ブリティッシュ・フォーミュラ・フォード1600シリーズのチャンピ オン……等々の成績を引っさげて86年にはF3000へ、そして88年にはレイトンハウス・チームからF1デビュー を果たしている。レイトンハウスではイヴァン カペリのチームメイトとして何度か光る走りを見せた。その中でも、89年母国グランプリでの3位表彰台、90年フランスGPの途中までの2位快走が印象に残っているが、彼のF1でのキャリアはぱっとしないもので終わった。しかし、新天地となったアメリカのインデイカーでその実力を開花し大活躍している。94年にはチップ・ガナッシ・チームからフル参戦している。パックウエスト・レーシングに移籍後の95年と96年にはそれぞれ2回表彰台に上っている。 今ではその陽気な親しみやすいキャラクターによりインデイでは欠かせないドライバーとなっている。
 予選での速さにはピカ一のものがあり、地元リオ・デ・ジャネイロでの第5戦では初のポー ル・ポジションを獲得するなどの活躍を見せた。1997年第8戦デトロイトでは定石通りのピットインを行わずに走りきろうという思い切った作戦に出て、同僚のマーク・ブラン デルを従えてトップで最終ラップに入るが、あと僅かというところで燃料切れで2台ともストップして表彰台を逃すという劇的なドラマも演じて見せた。その後ついに第15戦で待望の初優勝を飾った。
成績
Gugelmin
Mauricio Gugelmin HomePage drivers - Photos - Drivers - Mauricio Gugelmin Photos  A's Motor Sports World - CART 97年



ヤン・マルク・.グーノン

 93年にミナルデイからデビュー。翌年シムテックから参戦したが、チームの撤退とともに彼のF1キャリアも終わってしまった。1997.年の ルマン24時間レースではラファネル、オロフソンとトリオで(マクラーレン・BMW)2位 を獲得した。
成績
Gounon



オリビエ・グルイヤール

1958年生まれ フランス人 1982年フランスFルノー・シリーズ4位 1983年フランスF3シリーズ4位 1984年フランスF3チャンピオン 1985年ヨーロッパF3000シリーズ12位 1986年ヨーロッパF3000シリーズ15位 1987年ヨーロッパF3000シリーズ17位 1988年ヨーロッパF3000シリーズ2位
  フランス人ドライバーで、エルフのサポートを受け、89年リジェでデビューした。その後、オゼッラ、フォンドメタル、AGS、ティレルと4年に渡りほぼフル参戦したが、その間の入賞はわずか1回(しかも6位)と結果からみれば堂々たるB級ぶりを発揮した。
 しかし、予選落ちしたかと思えばいきなり予選トップ10を獲得したり、意外性という面でも非常に面白いドライバーだったため、タルクィーニと並んで彼を好きだというB級ドライバーファンは多い。(90年アメリカGPではあのオゼッラで予選8位を獲得したのである。)
 また、オイル漏れをおこしたまま走ることが多く、「オイルまき散らし男」とも命名されていた。このように、レースではマンセル顔負けのキレたところを見せるだけに、どこかとらえどころがない性格だったようである。そのルックスや、また鈴鹿のホテルでナンパをしていたことなどによって、スケベだとも言われていた。
 しかし、その反面、彼はチームに対する信頼をとても大事にする、義理人情の厚い男としての評価もされている。彼のヘルメットは濃紺でデザインされていたが、これはフォンドメタル時代に変えたもの。「チームカラーがこの色で、僕がチームを信頼していることをスタッフに示したかった。」ためだけに変えたそうだ。簡単に変えることができないとされるヘルメットの色を、チームのために変えるドライバーグルイヤール。このエピソードがグルイヤールをすべてを表している。
 10代からFカーに乗り、20代でF1デビューするというのが理想的なパターンで、ほとんどがその経歴を歩むが、グルイヤールがフォーミュラーレースを始めたのは81年で23歳の時。F1にデビューしたのは89年で、すでに30歳を越えていた。レーシングドライバーとして遅咲きである。また同時に華がないから地味に見える。故に有力スポンサーやチームから声がかかりにくい。フランス人の注目は何と言ってもプロストで、やがてアレジ、コマスへと移っていった。遅咲きで目立たない存在であることを認識している彼は、無意識にもレースでそのハンディを埋めようと必要以上に力む。そのためいつでも全開で、「ミラーを見ない凶器」とあだなされてしまうのである。
96年ルマン24時間ではマクラーレンBMW F1 を駆り6位を獲得した。
成績
Grouillard



ロベルト・グェレーロ(ゲレーロ、グェッレロ等)

[コロンビア・1958年11月16日]
22戦* 最高位:決勝8位 予選11位 (*うち1戦決勝不出走) 

 現在コロンビア出身のドライバーといえば、なんといっても‘98国際F3000&‘99CART チャンピオンのファン-パブロ・モントーヤだが、その先達といえる存在がグェレーロだ。

 ‘78年にコロンビアのカートチャンピオンになった後、英F3や欧F2で戦い好成績を挙げ‘82年から新人の登竜門・エンサインから23歳でF1デビューを果たす。
 チームはこの年の末に行き詰まり、同じB級の盟友(?)セオドールに吸収合併されるような状態だったが、そんなチームでしばしば好走を見せ高い評価を受ける。

 が、翌‘83年は結局そのままスライドする形でセオドールで走るに留まった。(マシンのレベルは…パっとせんもん同士がくっついてもたかがしれている…)
 チームメートはお隣ベネズエラの元2輪王者で新人のJ.チェコットだったが、チェコットが辛うじて1ポイントをゲットしたのに対し、グェレーロは無得点に終わってしまう。
 
 結局F1はその年限りとなりその後活動の場をインディカー(CART)に移すが、特に‘87年は好調で2勝を挙げランク4位につけている。

 彼に限らず『高い評価』だけではおいそれと良いシートに座れるものではないのは今も昔も変わらない。それプラス『カネ』、『コネ』、そして『運』が加わらなければ成功はおぼつかない事は幾多の『有望な』若手ドライバーが証明している。
 果たしてモントーヤは彼がつかみそこねた『流れ』に乗る事ができるだろうか?現在のところ見通しは明るそうではあるが。

(BT)
成績
Forix: Roberto Guerrero



エリック・コマス
1963年生まれ フランス人

1983フランス・カート選手権ブルークラスチャンピオン 1984フランス・ルノー5・エルフカップ選手権エルフ最優秀ドライバー賞 1985フランス・フォーミュラ・ルノーターボ選手権シリーズ第4位 1986フランス・フォーミュラ・ルノーターボ選手権シリーズチャンピオン 1987フランス・スーパープロダクション選手権(ルノー5ターボ)シリーズチャンピオン 1988フランス・F3選手権(ダラーラ388)シリーズチャンピオン 1989国際F3000選手権(ローラT89-50)シリーズ第2位 1990国際F3000選手権シリーズチャンピオン(ローラT90-50) 1991F1(Ligier-Lamborghini) 1992F1(Ligier-Renault)第11位 1993F1(Larrousse-FordCosworth) 1994F1(Larrousse-FordCosworth) 1995全日本GT選手権参戦(トヨタ・スープラ)トヨタ・チーム・セルモ 1996全日本GT選手権シリーズ第3位(トヨタ・スープラ)トヨタ・チーム・セルモ 1997全日本GT選手権シリーズ参戦(ニッサンR33GT-R)チーム・ゼクセルル・マン24時間レース(日産) 1998ル・マン24時間レース(日産)
 
  フランス人であることもあり、91年〜94年までの間リジェとラルースから参戦したドライバー。比較的アクの少ないスマートなイメージで、確実な腕をもったドライバーとして定評があった。特にルノーエンジンを獲得した92年シーズンはトップ10フィニッシュが8回、入賞3回を記録した。
 少年の頃からレーシングドライバーになることに憧れ、カートレースでチャンピオンを獲得、その後エルフのレーシングスクールでベストドライバーになり、バックアップを受けてフォーミュラ・ルノー、F3、F3000と着々とステップアップ、しかも、そのすべてでチャンピオンを獲得してきたエリック・コマスは、輝かしい戦績をもってF1とやってきた、いわばスーパー・エリートである。
 国際F3000でランキング2位になった時、すでにF1への道があったにもかかわらず、きっちりとチャンピオンを獲ってからF1に乗ったという事実が物語るように、コマスは技術・精神力ともにバランスのとれた非常に優秀なドライバ−だ。そうでなければ、チャンピオンを獲ろうと思ってシーズンに臨み、実際に獲れることなどないだろう。
 そうしてF1にやってきたスーパー・エリートの彼だが、残念ながらいまだその才能を存分に発揮しているとは言いがたい。3回の予選落ちを経験しながらも、同僚のベテラン、ティエリー・ブーツエンをしばしば凌駕する活躍を見せた1年目のリジェ・ランボルギーニ、そして同じく同僚ブーツエンをしのぎ、3回の入賞を果たした2年日のリジェまでは、彼が国際F3000時代に持っていた闘争心あふれる走りがそこかしこに見られていたし、将来のトップチームでの活躍も十分に予想された。
 ところが、その後のラルースでの2年間で、彼はすっかり小さくまとまってしまったようである。ほかを圧倒するようなパワーを感じさせるかつての激しい走りはすっかり影を潜め、非力なラルースのマシンをゴールに導く職人のような走りになってしまった。もちろん、ラルースのように信頼性の低いマシンを6位以内でフィニッシュさせるのは並大抵のことではなく、技術と精神力が不可欠なのはいうまでもないが、それでもコマスがたどってきたエリートの道を考えると、到底納得のできるものではないだろう。案の定、チームの撤退とともにシートを失った彼は、翌年のシートを新興のDAMSに求めたが、これもかなわず、トップチ−ムはおろか下位チームのレギュラーシートすら確保できない状態になってしまった。
 しかし、特に94年はあのマシンで何とトップ10フィニッシュが7回、入賞2回を記録したのである。そうした結果を考えれば、その後、なぜどのチームも彼にオファーしなかったのかが未だにわからないのである。
 .コマスは他のカテゴリーでも抜群に速かったことを見ると、一度トップチームでドライブした彼を見たかったと思う人も多かったであろう。
成績
Comas
Erik ComasComas, Erik   24 Hours At Le Mans

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