フォルカー・バイドラー

1962年生まれ ドイツ人 1977年-79年カート 1980年-1981年ドイツFフォード1600シリーズ2位 1982年ドイツFフォード1600チャンピオン・ドイツFフォード2000チャンピオン・ヨーロッパFフォード1600チャンピオン 1983年ドイツF3シリーズ参戦 1984年ドイツF3シリーズ2位 1985年ドイツF3チャンピオン 1986年ヨーロッパF3000参戦 1987年ポルシェカップ優勝 1988年ヨーロッパF3000シリーズ16位 彼のレース経歴の中でもっともスポットライトを浴びた瞬間-それはF1ドライバーとしてではなく、91年のルマンをマツダ787Bで制した事だろう。
成績
Forix: Volker Weidler



ルカ・.バドエル

 スクーデリア・イタリア(ローラ・フェラーリ)から93年にF1デビュー。マシンは最悪だったが、バドエルは予選の速さと完走率の高さを維持したことで、スキルの高さを証明することはできた。ただ、不運だったのは、この時期イタリア系陣営に、概して元気がなかったことだろう。これが、結果的に彼の才能の目を摘むこととなってしまった。あの良血クリスチャン・フィッティパルディ(バドエルの前年のF3000チャンピオン)でさえ、ミナルディで芽が出ず、CARTに転進して成功しているのだから。
 結局、そのシーズン限りでチームは消滅。翌年からチーム数が減ったこともあり、1年ブランクをおいて、バドエルはミナルディからF1に復帰する。またイタリア系チームだ。
 この年のミナルディの状況は、それなりに充実していた。ニューシャーシの戦闘力はかなり高く、シーズン中も他チームのドライバーからコーナーリング性能の高さを指摘されるほどだったのだが・・・。
 2年ぷりのF1復帰で上昇気運、しかし、チームは土壇場になって無限エンジンの供給をキャンセルされ、戦闘力がまったく期待できないコスワースEDエンジンの仕様を余儀なくされる。エンジンパワーを考えれば、バドエルのファイナル最高位が7位(カナダ)だったのも無理はない。その代わり、全16戦中9戦で完走。ミナルディのチーム完走率はこの年のべスト3なのだから、シャーシの完成度はかなり高かったと言える。バドエル自身、マシン特性に見合った粘りと完走を目指すドライビングを身につけていく。F3000時代の、がむしゃらに突進的だった走りに比べれば、まさに変貌とも言えるものだった。
 そして翌年。ミナルディからイタリア系の新チーム、フォルティにレンタル移籍したバドエルだが、チームは運営面のトラブルから資金難に陥り、予選通過ラインギリギリ、決勝も走れれば御の字という状況。イギリスGPを最後にチーム自体が崩壊してしまう。F1では不遇な経験ばかりのバドエルだが、それも全て資金力不足が原因である。その後、フェラーリのテストドライバーを務めることになったのも、その実力が認められたからだ。母国イタリアでは将来のF1チャンピオン候補と言われただけに、その資質を埋もれさせまいというイタリア人たちの思いも強いのだろう。
 今年、2年ぶりにF1復活となるシートは、やはリミナルディ。フェラーリの、ミナルディへのテコ入れの一環でもある。一気の上位進出は難しいだろうが、キラリと光る走りを見せて欲しいものだ。
 ちなみに、バドエルへのギャラを払う余裕のないミナルディは、フェラーリに肩代わりしてもらっているそうである。
成績
Badoer
F1 Today - Drivers Information - Luca Badoer  SportsLine WorldWide - Formula One



リカルド・パトレーゼ

1954年4月17日、イタリア生 鉄道摸型の収集は有名。妻スージーとの間に4人の子供がいる優しいお父さん。
北イタリアのパドアとモンテカルロに家を持つ。スポーツは万能で、特にスキーはF1界NO.1。音楽の趣味はクラシックというダンディなイタリアン。

1974年 カート世界チャンピオン
1975年 フォーミュラ・イタリアで4強レース・デピュー。シリーズ2位,
1976年 ヨーロッパF3
1977年 ヨーロッパF2 シーズン途中でシャドウ・チームからF1デピュー。
1978年 アロウズ・チームでF1フル参戦
1982年 ブラパムへ移籍。モナコGPで劇的な初優勝を飾る。
1987年 最終戦でウィリアムズをドライブ。
1989年 ウィリアムズでシリーズ3位
1990年 サンマリノGPで7年ぷりの勝利
1991年 メキシコ、ボルトガルGPて勝利
1992年 日本GPで勝利

 パトレーゼが生まれたパドアという所は、信心深い人々が住むことで有名で、長い歴史をたたえた街。そんな環境で育ったハトレーゼは誠実で穏やかな心を持ち、人に厭な印象を与えるようなことはない。スポーツマンで紳士的、おしゃれにもさりげないセンスが光り、人格者として知られている。 ところが、若い頃のパトレーゼは今の彼とは別人といえるほど気難しく、人づき合いも悪いというので評判だった。インタピューをしても笑うことはほとんどなく、受け答えも愛想がなかったというから驚く。 では何がパトレーゼを変えさせたのだろうか。そこにF1ドライバー、リカルド・パトレーゼの秘密が隠されているような気がする。
  
妻スージーは人気者
 パトレーゼの低迷時代を支えたのが何といつても奥さんのスージーさんであろう。世界中のサーキットに足を運ぴ,グリッドでへルメットやドリンクを持ってくるおしどりぶりだった。 でも、彼女は冬場になると旦那を置いてパケーションに行っちやうというチャッカリした面も持っているからかわいい。性格もいいし美人だし、しかも、他のドライパーの奥さんたちに1番人気が高いのもスージーで、みんなスージーみたいになりたいと言っていたそうだ。リカルド主人も形無し。NO2の運命はここにもあったようだ。

 ユダヤ系イタリア人ドライバーで、ミロの彫刻のような風貌でF1界きってのハンサムである。 しかも、プロ級といわれるスキーヤーであるなど、スポーツ全般をこなす非常にすぐれた運動神経をもつ。 一方、彼は大学(経済学部)を卒業した珍しい学士ドライバーであり、しかも趣味が「鉄道模型」と、派手なF1ドライバーというイメージではない一面も持ち合わせていた。
 出場回数では、彼の右に出る者はなく、これからも出ないであろう大記録を保持している。例えば、ロニー・ピーターソンが事故死したレースに出場し、最後にはシューマッハーのNo2ドライバーになるまで大した事故にも巻き込まれず参戦し続けたことは、驚異的といわざるを得ない。ここまで永きに渡ってレースに参戦した者は彼以外にはいないのである。
 穏やかな紳士であるイメージを持つ彼だが、若いときはロニー・ピーターソンが事故死したイタリアGPの事故のきっかけを作った張本人に疑われる(念のため、あの事故の原因はパトレーゼにはありません。ビデオ映像により後年証明されました。)など、「速いが荒い」というイメージを持たれていたようだ。シャドーチームを経てアロウズに移籍、アロウズの唯一のポールポジションを獲得したりそれなりに活躍した。
 No2ドライバー人生がはじまったのは、ピケのNo2としてブラバムに移籍した82年からである。そこで幸運にも2勝を挙げることができた。
 その後、アルファロメオ、ブラバム、ウイリアムズ、ベネトンを経て引退したが、晩年には「ベストセカンドドライバー」と呼ばれるように、完全にA級ドライバーのサポート役やマシンの開発等裏方役に徹していた印象が強い。
 しかし、かつては彼にもA級になるチャンスはあったのである。(おそらくチャンスは3回くらいあった。)
  デビュー当時は天才といわれ、早くも78年にはフェラーリからのオファーが... しかし、イタリア人であることもあってこれがまとまらず、アロウズに移籍し、チャンスを逸してしまった。翌年のフェラーリは絶好調だった。次に79年、当時まだ新進チームだったウイリアムズからのオファーが... しかし、それを断ってアロウズを選択してしまい、代わりにウイリアムズのA・ジョーンズは見事王者になったのである。
  その後もアルファロメオや86年のブラバム(車体が異常に低いゴードンマーレイの大失敗作)への移籍はチーム運がないと言わざるを得ないでしょう。
 また、256戦出場できたのはもちろん彼の実力であるが、彼がユダヤ人であったこともあり、同じユダヤ人であるF1界の首領バーニーエクレストンの後ろ盾があったことも彼にとっては大きなプラスであった。(特に、86年のブラバムは当時オーナーだったエクレストンの計らいがあったことを彼は公言しているし、88年のウイリアムズもエクレストンの力によって加入したと言われています。)

成績
Patrese



ジョナサン・パーマー
1956年生まれ イギリス人 1981年イギリスF3王者 1983年ヨーロッパF2王者 1987年F1ジム・クラークカップチャンピオン
 F1ドライバー界唯一の医師免許を持つインテリジェント・ドライバーで、「フライング・ドクター」と呼ばれていた。(ちなみに、彼の妻も医師である)
主にザクスピード、ティレルから出走していたが、ノンターボでは最も速く1987年に「ジム・クラークカップチャンピオン」を見事獲得した。同じイギリス人ドライバーであるナイジェル・マンセルに強いライバル心をみせ、イギリス人ドライバーNo1を自負していた。
成績
Palmer



ジョニー・ハーバート

1976-83年イギリス・カート・シリーズ(100cc&135cc)王者 1983年ブランズハッチFフォードフェスティバル出走 1984-85年Fフォード1600シリーズ参戦 1987年イギリスF3王者 1988年ヨーロッパF3000シリーズ8位

 日本でも人気のあるドライバー。89年にベネトンからデビューし、いきなりブラジルGPで4位と鮮烈なデビューを飾った。
 しかし、F3000時代に大事故による大けがをし、それが完治していなかったため途中でクビになった。
 ハーバートは後にも先にもあの大事故が運のつきだったように思う。
 その事故が起こったのは88年の7月のことである。圧倒的な速さで英国F3チャンピオンを獲得し、国際F3000に進出したハーバートは、第7戦となるそのブランズハッチのレースで、ポールからスタートした。しかし、ストレートを疾走中に、スイス人ドライバーのグレガーフォイテクの無謀な運転から発生した多重クラッシュに巻き込まれ、壁に激突し右足くるぶしの複雑骨折を負ってしまったのである。 病院のベッドの中でハーバートは将来をあきらめかける。それほど深刻な怪我であった。しかし、当時ベネトンのマネジャーであったピーターコリンズは周囲の反対を押し切り、ハーバートにシートを与えたのである。自分のマシンまで歩くことが出来ないほどの状態にも関わらず、デビュー戦で予選でチームメイトのナニーニを上回り、決勝でもなんと4位入賞を果たしてしまうのである。しかし、その後足が完治していないこともあってか成績は下降。シーズン途中で解雇された。
  ベネトンをクビになった後、全日本F3000を経て、ピーター・コリンズによってロータスのレギュラードライバーに抜擢されるも、仁義を重んじる人のよさから何と5年もの長期契約を結んでしまい、その間のトップチームからのオファーを不意にしてしまったのである。(当時のチームメイトのハッキネンとはポイントでは若干劣るものの、何と予選で互角だったため、93年にマクラーレンやウィリアムズからのオファーがあった。)
 その後、ロータスからリジェに身売りされ、95年にM・シューマッハーのNo2ドライバーとなったが、30歳を越していた彼にはテストドライブの機会すら与えられず、予選・決勝ともM・シューマッハーに大きく遅れるところとなった。
 しかしながら、この95年は彼にとってのベストリザルトである年間総合4位を獲得し、ベネトンのコンストラクターズチャンピョンに大きく貢献した。また、ハーバート個人もヒルの度重なるシューマッハーへの激突などにより、念願の母国イギリスGPと伝統のイタリアGPを制することが出来たのである。
 これらの勝利は、F3000時代の大事故による不運を穴埋めするかのような幸運によるところが大きかったが、特に、初優勝となった母国イギリスGPは最高で、レース後妻と抱き合って喜ぶ彼の姿は感動的であった。
 翌年96年にザウバーへ移籍しフレンツェンと互角の走りを見せた。翌年97年、ハーバートは初のNO1ドライバーになり、モティベーションも高まり予選・決勝共に絶好調で、ほとんど1人でポイントを獲得し孤軍奮闘した。98年にはアレジのザウバー加入によってベテランコンビを組んだが、アレジ中心となったチームに合わせられずスチュワートに移籍することとなった。99年バリチェロとの間にも明らかに実力差が見られるようになってきたため、2000年の契約に関わらず今年度限りの引退が噂されている。ハーバートにとってまさに正念場を迎えている。
成績
Herbert
Johnny Herbert Johnny Herbert



マッシミリアーノ・パピス

成績
Papis
Paddock - Pilotes - Massimiliano Papis  ChampCar



リカルド・パレッティ

[イタリア・1958年6月15日生まれ 1982年6月13日没(享年23歳)]
2戦 ※他に1戦決勝不出走あり 最高位:完走なし 予選13位 

 ‘80年代のF1で、決勝レース中に亡くなった唯一*のドライバー。(*註:‘82年のジル・ビルヌーブの事故は予選時) 
 ‘94年のサンマリノGP(イモラ)でラッツェンバーガー(予選時)とセナ(決勝時)が相次いで事故死した折、その名が久しぶりに取り上げられた。

 1979年イタリアF3、‘80年欧F3&F2、‘81年欧F2で走っていたが、取り立てて好成績を残してF1にステップ・アップしたわけではなかった。
 1982年にパイオニアのスポンサーを持ち込みオゼーラからデビューするが予選・予備予選落ちが多く、予選ベストリザルトとなったサンマリノGPは殆どのFOCA系チームがボイコットする中でのもので、14台中の成績。
 また、せっかく予選を通過したレースでも途中赤旗となり、再スタート時に同僚にマシンを渡し未出走扱いになる不運もあった。(←デトロイトGP)

 そしてこの年の第8戦カナダGPのスタートで悲劇が起こる。

 ポールのピローニ(フェラーリ)がスタート出来ずに立ち往生しているところへ再後列スタートのパレッティが事情が分からず高速で激突。救助作業が行われている最中に出火までしてしまう。炎は比較的短時間で消火され救出されるが、衝撃によるダメージは大きく彼は帰らぬ人となる。
 
 直前のベルギーで亡くなったジル・ビルヌーブの名を新たに冠されたサーキットでの出来事であった。

 この1982年という年は政治的なドタバタも含めてなにかスッキリしないシーズンだったという感が強い。

 パレッティについての印象はというと、この時まだ24歳目前の新人でチームもオゼーラだった事から実力云々は分からなかったが、眼鏡を掛けた痩せて神経質そうな顔からはインテリっぽさも漂っていた。

 御冥福を祈りたい。

BT
成績
Forix: Riccardo Paletti



エリック・.ヴァン・デ・ポール

1961年9月30日、ペルギー生
1979年 18歳で自動車免許の取得と同時にぺルギー国内のサルーンカーレースに参戦
1984年 フランスのレーシングスクールを経て、いきなリフランスF3に参戦
1985年 べルギーFF1600チャンピオン。
1986年 BMWペルギーのサボートを受け、グループNクラスでデピューウィンを飾る。西ドイツ・BMWジュニアチームに招かれ、西ドイツ・ツーリングカー選手権参戦。
1987年 ザクスピードBMWジュニアチームから西ドイツ・ツーリングカー選手権に参戦し、シリーズチャンピオン。スパ24時間優勝。
1989年 国擦F3000参戦 シリーズ5位
1990年 国擦F3000参戦 シリーズ2位
1991年 アメリカGPて新生チーム・モデナからF1デビュー。サンマリノGP9位完走。
1992年 ブラパムへ移籍。後半はフォンドメタルヘ。
 91年にモデナよりデビューしたベルギー人ドライバー。唯一決勝に進出したサンマリノGPでは、変わった形状のユニークなサイドポンツーンをもつあのマシンで、一時5位を快走し驚かせた。風貌はデビット・ブラバムと同様、「まさかこの人がF1ドライバー?」という感じで、闘争心が全く感じられないルックスであったが、1992年にはフォンドメタルで母国GP予選15位決勝10位完走を果たし、男の意地をみせた。
 
 F1まで駆け上がってくる過程には、F3などのフォーミュラレースを中心にのぼってくるドライバーもいれば、ツーリンカーレースや耐久レースを体験するものもいる。 マシンの性質やドライビングスタイルが違うわけだから、なるべくフォーミュラレースで駆け上がってくる方が有利なように思える。だがシューマッハのようにSWCで鍛えられていきなり活躍してしまうものもいるわけだから、結局はそれぞれの資質に委ねられることになる。
 それでもどのカテゴリーが得意かによって、ドライバーの性質の違いが出てくるのは間違いない。ヴァン・デ・ポールはツーリソグカーレ−スや耐久レースでの優勝経験を持つなど、粘り強い走りが評価されている。
 その才能はF3000でも発揮され、90年にはコマスとチャンピオン争いを演じるまでの実力を披露した。乱戦のレースの中でも、堅実なドライビソグでマシンを走らせ、着実に成績に結びつけるスタイルが印象的だった。
 F1でも、サバイバル戦の中で粘り強く周回を重ねる彼の走りが時折見られたが、チームとマシンが不安定なために結果は出なかった。
 おとなしそうに見えて、実は気さくで陽気なヴァン・デ・ポール。茶目っ気ぶりを発揮してチームを和ませることもある。年齢と地味に見えるイメージがマイナスとなっていたが、様々なカテゴリーを体験したテクニックはどこかで必ず発揮されるだろう。
成績
Poele
Poele, Eric van de



パオロ・バリラ

成績
Barilla
Barilla, Paolo  F1 : Minardi Info Page



オリビエ・パニス

1966年生まれ フランス人 87年にポールリカールのウィンフィールド・チャンピオンを獲得 89年フランスFルノーチャンピオン 90〜91年フランスF3 92年国際F3000参戦 93年国際F3000チャンピオン
 94年にリジェからF1フル参戦。開幕から6戦連続完走を果たし、ドイツGP2位等大活躍を果たす。(年間10位) 翌年も前年度を上回るポイントを獲得し、96年のモナコで初優勝を果たし、所属していたリジェチームは自らの憧れでありヒーローであるプロストのチームとなった。無限ホンダエンジンも絶好調で、シーズン序盤はチャンピオン争いに加わる勢いで、まさに順風満帆だった。しかし第7戦カナダGPで大クラッシュし、両足骨折の重傷を負うこととなった。その3ヶ月後見事に復帰を果たし、ポイントを獲得するなど復活したが98年にはプジョーエンジンにスイッチしたマシンが絶不調だったため、ノーポイントに終わってしまった。99年もチーム状態はあまり改善されず、パニスは予選等で同僚のトゥルーリに遅れをとることが多くなり、今ではチーム低迷のA級戦犯にされつつある。パニスは、コマス等と同様実力があるにもかかわらず、フランス人特有の「脱フレンチ」ができなかったため、インターナショナルなF1の世界では損をしているように見える。
成績 



ファブリシオ・バルバッツァ

 1991年にAGSからデビューしたイタリア人ドライバー。AGSでは予選を通過できなかったが、1年間をおいた1993年にミナルデイから再復活デビューし、連続入賞を果たすなどねばり強い走りにより大活躍するものの、チームの財政難により解雇されてしまった。ユニークなヘルメットデザインと火事場から出てきたような爆発ヘアスタイルが個性的であった。
成績
Barbazza
Barbazza, Fabrizio  Fabrizio Barbazza



マウロ・バルデイ

[イタリア・1954年1月31日]
36戦 最高位:決勝5位 予選7位  
☆1981年ヨーロッパF3チャンピオン

 もじゃもじゃ頭にエラの張った顔が特徴的な実力派イタリアン。欧F3では大活躍で、81年のタイトル以外にも80年のモナコF3で勝利を挙げている。
 
 同じイタリア人としては活動時期も実力もミケーレ・アルボレート(80年欧F3チャンピオン)とライバルともいえる関係で、ある意味アルボレートに成り損ねたドライバーと言えるかもしれない。
 アルボレートがF2と掛け持ちで81年からティレルでF1デビューしその後フェラーリのエースとして君臨したのに対して、バルディのF1でのキャリアは不発、あるいは宝の持ち腐れとも言えるものに終わっている。

 実力を高く評価され、引く手あまたで争奪戦まで繰広げられたというF1挑戦だったが、結局1982年にアロウズで地味なデビューを果たす。(2度6位入賞)
 83年は地元アルファ・ロメオに移籍するが、同僚の怪人・A-デ.チェザリス程は活躍できなかった。
 84年は『ホンダ抜き』のスピリットにしかシートを得られず、無得点。そのまま翌年もそこで走るが不幸にも序盤でチームが活動停止に陥ってしまい、そのまま彼のF1のキャリアも終わる事になる。

 チームやマシンに恵まれていれば、きっと名を残したに違いないと思わせるイタリアン・ドライバー達。(マルティニ、タルキーニetc…)彼も充分にそのリストに名を列ねる資格はあるだろう。

 その後はWSPCのザウバー・メルセデスのドライバーとして大活躍。シルバーアロー帝国の隆盛に貢献している。

BT
成績
Baldi
Baldi, Mauro  Mauro Baldi



エマニュエル・ピロ

1962年生まれ イタリア人 1977年イタリアカートレースチャンピオン 1980年イタリアFフィアットアバルトチャンピオン 1985年ヨーロッパF3000シリーズ3位
 マクラーレンのテストドライバーを経て、負傷したハーバートの代わりに89年フランスGPよりベネトンからデビューした。最終戦の豪州GPでなんとか5位に入ったが、その後はダラーラに移籍、2シーズンを過ごしたが、ポイントは1点のみ。全くいいところはなかったが、たまに予選でいい走りするなど、面白いドライバーであった。
成績
Pirro
Formula 1 Links Heaven!: Drivers : Pirro  Emanuele Pirro   Pirro, Emanuele  24 h Le Mans 1998 4



ディディエ・ピローニ 
[フランス・1952年3月26日生 1987年8月23日没・享年35歳]
69戦 3勝 4ポールポジション 5ファステスト 
ランク最高位:2位(‘82年)
☆1978年ル・マン24時間優勝

  F1ドライバー史上最大の憎まれ役。チャンプを狙える器ながら、伝説の英雄ジル・ビルヌーブと確執を起こしてしまったばかりにすっかり悪役扱いされている不遇の秀才型フランス人。故人。

 後世、数多く書かれるジル・ビルヌーブの『物語』では、単に゛ジルの死因″のような印象しか与えないものも多く、それはちょっとばかしフェアではない気がする。
 リアルタイムで知るファンにならともかく、そのような形でしか当時を知り得ない人達(その頃生まれていない世代にさえ)にまでそれを元に断罪されるのは酷というもの。それまで良好といわれた関係だっただけに、当時多くの人を困惑させた事件そして事故だった。
 無論チームオーダーを無視するという行為は彼に非があり、『裏切り者』と言われても仕方あるまい。だがその件は責められるとしても、ジルを直接事故に遭わせた訳ではない。それ以降は結果論だと思うのだが…

 ‘70年代半ばのF3、F2を経て1978年にティレルからF1デビュー。初年度からコンスタントに入賞する。またこの年はルノーを駆ってル・マンにも優勝するなどフランスレース界のエリートらしい活躍をみせる。
 ‘79年もティレルで走るがチーム力が低下し足踏み。1980年には地元フランスのリジェに移籍しエース・J.ラフィーに見劣りしない活躍を見せ第5戦ベルギーで初優勝を飾る。

 だがこの状態に満足せず翌年はフェラーリに移籍。後にこの移籍話はシーズン序盤の3月頃には密約が取り交わされていた事が判明し周囲を驚かせる。
 現役の頃からビジネスマンとしての顔も持っていたが、それも頷ける計算高さも感じさせた。野心家・策士だとの見方もできよう。

 そして‘82年。ジル亡き後フェラーリのエースとしてタイトル争いをリードしながら、ドイツGP予選二日目の大事故によって両足複雑骨折を含む重傷を負い引退を余儀無くされた。
 雨で視界不良。前日のタイムでポール確実。しかも非計時セッション。一体何が彼を駆立てたかは不明。
 スロー走行中のプロストが後から近付くデイリーを先に行かせるが、その更に後方から異様なハイペースで迫るピローニはデイリーが自分に道を譲ったと思い突進。だがその先にはプロストがいた…(この事が後にプロストが雨に敏感になる契機となる)
 当時レース誌に掲載された救出を待つ彼の痛々しい顔はとても衝撃的だった。この他にも連発した事故への対策もあって、この年限りでウイングカーは禁止される。

 その後必死のリハビリを経てパワーボート界で復活を果たす一方F1への想いも捨てていなかったらしく、‘86年にはリジェや新興のAGSをテストする姿が伝えられ、またラルースからの復帰の話もあったようだ。
 
 だが1987年8月、イギリスでのパワーボートの大会中の事故で帰らぬ人となる。突然の訃報だった。

 無口で上品・物静かな紳士と紹介されたが、クールというよりニヒルという表現が似合っていた。時としてその静かさが一変して攻撃的な走りを見せる事もあり、特に1979年のモナコでの走りは『蛮勇』と評される程の激しさだった。この静と動の二面性が或いはあの行動の背後にあったのかもしれない。
 他の誰よりもフランス人らしくも感じられたが、実はネイティブ・イタリアン(フランス生まれのイタリア人)だという話も。この辺りも彼の二面性と関係あるのだろうか?

 『物語』は時が経つにつれ『伝説』へと姿を変えてゆく。当然『悪役』の姿も一人歩きするだろう。それに対しての反論はもう彼からは聞く事は出来ない。いや、存命だったとしても無口な彼が多くを語る事もないのかもしれないが…

BT



デイモン・ヒル

 彼は成績、経歴、血統どれをとってみてもB級F1ドライバーではないだろう。しかし、私はどうしても彼にB級臭さを感じてしまうのである。(理由はよくわからない。彼は結局96年のタイトルを制し、22勝を挙げたまさにグレートドライバーであるにもかかわらず、いぶし銀な職人のイメージがあるからかもしれない。)
 B級にいれるかどうか微妙な人が何人かいるが、ヒルはもちろんそのうちの一人である。なんで、チャンピオンになれなかったベルガーがなくてヒルがB級なんだ!というごもっともな反論も頂戴しておりますが、幾分主観的なものなので、大目に見てもらっています。とはいえ、ヒルがB級である一つの理由を挙げると、 ヒル自体ではなく、デビューの仕方やブラバム時代のマシンにあると思います。
 92年のブラバムは、日本の中谷明彦が乗る予定だったがライセンス発給問題で参戦を断念、急遽スポンサー付きで話題性がある女性ドライバー、ジョバンナ・アマティがシートを得て奮闘したが、他のドライバーとあまりにも実力差がありすぎたため、幸か不幸かウィリアムズのテストドライバーだったヒルがシーズン途中で抜擢されたのである。ヒルのパフォーマンスはアマティと比べものにならないほど良かったが、周囲からはひとくくりに見られてしまい、ドライバーとして評価を下げることとなってしまうのである。
 しかも、スポンサーはデーモン小暮率いる某バンドだったこともあり、そのマシンはけばけばしいカラーリングでチームも瀕死状態であった。たとえチャンピオンになれずとも、A級ドライバーはこうしたマシンに乗ることはないでしょう。言い換えれば、ここからはい上がってチャンピオンになったヒルこそが真の英雄だという見方もあるが。
 それゆえに、93年に彼が当時最強のハイテクマシン、ウィリアムズFW15のレギュラーシートを得たとき、周囲は疑いを隠さなかった。チームとしてはテスト嫌いのマンセルに代わって地道にテストを重ね、開発作業に大きく関わってきた優秀なドライバーだったのだろう。しかし、果たしてトップドライバーとしての資質があるのか懐疑的な声はやむことがなかった。実質的なデビューイヤーである93年にはプロストを何度も予選で上回り、決勝も3度の優勝と2回の優勝寸前リタイヤを記録 翌年94年にはセナの事故死によりNo1ドライバーとなり、年間6勝を記録し、最終戦までシューマッハーとタイトル争いを繰り広げたことによりトップドライバーの仲間入りを果たした。特に雨の鈴鹿での走りは彼のベストファイトというべき内容で、タイヤの限界スレスレの卓越したマシン・コントロールを見せた。
 
  偉大な父グラハムが自分のチームスタッフを乗せた飛行機を操縦して事故死したことで、ヒル家は賠償金支払いのため蓄えを全て使ってしまったことから、長男であるデーモンは自らの学費捻出のためにバイク便のライダーをしながら学生時代を過ごしたという。彼のレース経歴の最初は2輪での活動だったことは、こんなところにも関係している。

 バイク便のライダー以外にも若き日のデーモンはいろいろなことを経験している。建築現場の作業員やロックバンドのギタリストなど様々だが、中でも「セックス・ヒットラー・アンド・ザ・ホルモンズ」というとんでもない名前のパンクバンドのギタリストをしていた。(古館氏は、ウイリアムズでセカンドドライバーだったころのヒルについて「面立ちはジョージハリソン。まさにチーム内サイドギター!」と評していた。)F1界でのギターの腕前はアーバインと1,2を争うが、最近はサーフィンにこっているそうだ。

   ところで、1999年でヒルは引退してしまう。古き良きドライバーの香りをもつ一人がまた消えていってしまうのは残念。彼の実力があるのかないのかわからないところはB級ファンにとってたまらない魅力であった。プロスト、マンセル、セナ、クルサード、ヴィルニューヴなどの蒼々たるチームメートにひけをとらず、遅いデビューながらすばらしい記録を残し、トップチームでないアロウズをあわや優勝に導いたり、ジョーダンを初優勝させたりしたことなどから、彼の実力は十分に示されているにもかかわらず、晩年までその実力は疑われていたのはなぜだろうか。ヒルが引退を発表した時のシューマッハーの驚きを隠せないコメントは、ヒルのいないGPの寂しさをよく表している。
成績
Hill
Damon Hill WebsiteDamon Hill Dot ComDamon Hill Damon Hill ActionJulien's Damon Hill HomepageAll New Unofficial Damon Hill Site  Damon Hill [geocities.com]



ジャック・ビルヌーブ(Sr)(『ヴィ』、『レ』、『ニュー』、『ヴ』 等)
[カナダ・1953年11月4日生まれ]
(0)戦 最高位:決勝-位 予選-位 
※参考記録…予選落ち:3回
☆スノーモービル・ワールドチャンピオン(3度)  1980、81年 FAtチャンピオン
 
 偉大な兄と、自分と同じファーストネームの立派な甥っ子を持ってしまった故に、ことレースファンからは冷たい扱いを受けてしまうもう一人のビルヌーブ。データベース泣かせのカナダ人。
 本人がレーサーでなければ羨ましい限りだが、同じ職業だった為に比較されてしまう運命がつきまとう。

 兄同様スノーモービルやフォーミュラ・アトランティック(FAt)等で活躍し、1981年の終盤の北米シリーズ2戦だけS.ストールの代わりにアロウズからF1挑戦のチャンスを得る。
 ジルのマネージャーのアレンジによって実現した話のようだが、2戦とも予選落ち。また‘83年にはRAMから1戦のみエントリーするがやはり決勝には進めず終わっている。
  FAt時代は兄以上の逸材との評価もあったようだが、この結果だけを見ればにわかには信じ難い話ではある。
 
 雪煙で視界の効かない中を突っ走るスノーモービル・レース(註:そのハードさによってジルも鍛えられたという話)やFAtで何度もチャンプを獲得するなど決して凡才ではないと思うが、兄が超がつくスーパースターだっただけにちょっとやそっとでは認めてもらえないのは辛いところ。やはり血統だけでは勝負の世界は戦えないという事か。
 最近のブラザーズ参戦といえばシューマッハ兄弟だが、少なくともラルフ位には光るところを見せておかなくては世間も承知はすまい。
 そう考えると『親の七光り』と陰口を叩かれながらもちゃんとチャンピオンに輝いた甥のジャックとかデーモン・ヒルというのは立派だと言えるだろう。
 
 その後はCART(インディ)などに参戦。CARTでは1985年に1勝を挙げ実力を証明している。
 願わくば兄上の分まで長生きしていただきたい。

BT
 {Special Thanks:Mr.MCS-5( from 菜ナス軍団日記forWeb版) &  Mr.t-kawa}



マンフレッド・ビンケルホック(ヴィンケルホック、ウィンケルホック等)

[ドイツ・1952年10月6日生まれ 1985年8月12日没]
47戦* 最高位:決勝5位 予選5位 (*内2戦決勝不出走)
ランク最高位:22位(‘82年)

 見るからに朴訥で職人然としたドイツ人ドライバー。

 フル参戦はウイングカー最後の年となる1982年にドイツ系のATSから。万年B級のATSながらデトロイトの市街地コースで予選5位、またそれに先立つブラジルでは5位入賞と 非凡なところを見せる。
 
 F2の頃からBMW系ドライバーで、その縁でATSは‘83年にブラバムと並んでBMWのターボエンジンを手にいれる。が、チームも彼自身も‘82年以上の成績は出せないまま2シーズンを終える。
 結局‘84年でチームは活動停止するが、最終戦だけ彼はT.ファビ の替わりにブラバムに乗っている。

 ‘85年 はハート・ターボを積むRAMに乗るが、シーズン途中にF1の傍らにクレマーポルシェで参戦していた世界耐久選手権(WEC)のカナダ戦の事故で亡くなっている。クラッシュの際に室内のロールバーとぶつかった衝撃が致命傷になったといわれた。(その数週間後、奇しくも同国の俊英S.ベロフも同シリーズのスパでポルシェに乗って亡くなっている)

 1980年のニュルブリクリンクでの欧F2では走行中ジャンピングスポット状の坂から舞い上がり、何度も縦回転する程の激しいクラッシュを起こしているが奇跡的にほとんど無傷で脱出している。
 事故の激しさは当時滅多にモータースポーツなど放送する事のなかったNHKでも流される程だった。しかし5年後のカナダ・モスポートパークでは、残念ながら奇跡の再現は起こらなかった。

 その数年後、兄の遺志を継ぐように弟・ヨアヒムもF1に挑戦するも目立った成績は残せずに終わっている。
 だがツーリングカーやスポーツカーなどの分野では活躍し、‘99年のル・マン24時間ではBMWに勝利をもたらしている。

BT
Forix: Manfred Winkelhock



ヨアヒム・ビンケルホック

1960年生まれ F1ドライバー故マンフレート・ヴィンケルホックの弟 1981年ヨーロッパ・ルノー5ターボシリーズ参戦 1982年Fフォード1600シリーズ参戦 1983年ヨーロッパサルーンカーシリーズ参戦 1986年ドイツポルシェ944ターボカップ王者 1987年ドイツF3シリーズ2位 
成績
Winkelhock
F1. Winkelhock, Manfred



コラード・ファビ
[イタリア・1961年4月12日]
12戦 最高位:決勝7位 予選11位
最高ランク:記録無し
☆1982年ヨーロッパF2チャンピオン

 ブラバム、ベネトンで活躍したテオ・ファビの弟。兄に似ず可愛い顔立ちだった。
 
 幼くしてカートに乗り始め、10代半ばで早くも名門ビレル・ワークス、続けてイタリア・ナショナルチーム入りを果たす。そこでのチームメイトは故デ・アンジェリスやデ・チェザリスという面々。 

 トップ・カーターとして名を成した後、1979年にはF3でフォーミュラに乗り始め、‘80年にはアルボレートのチームメートとして欧F3に強豪ユーロレーシング(伊:マーチ・アルファ)から参戦、2勝を含めセンセーショナルな活躍をみせる。(註:チャンプはアルボレート)
 続く‘81年にはすかさずF2にステップ・アップ。マーチ・ワークスから欧F2を戦い初年度から1勝、そして翌1982年のヨーロッパF2選手権で5勝を挙げてジョニー・チェコットとのタイトル争いに競り勝ち、若干21歳で見事チャンピオンに輝く。当然F1界からも注目され、ブラバムのテストドライブのチャンスも得る。ここまでは順風満帆…だった。

 タイトルを引っ提げて翌83年からF1デビュー。だがチームはブラバムではなく万年弱小オゼーラ。そのせいもあり予選落ち連発。なんとなく雲行きが怪しくなってくる。
 続く‘84年はシリーズ中盤兄・テオがCARTに挑戦する間の3戦だけブラバムで代走。F1史上でも稀な兄弟リレーが見られた。これにはF2時代から縁の深いBMWの後押しもあった模様。
 ここでアピールしておけば未来が開けたかもしれないが、トップチームのマシンながら平凡なリザルトに終わっている。この年まだ23歳の若さだったがF1の道はここで終わりになってしまった。

 最初のチームが悪かったのか、F2とF1ではレベルが違い過ぎたのか。あるいは若すぎたのか…
    F2までが凄まじかっただけに、本人も周りも無念だった事だろう。
 カートやF3/F2の同期の連中の多くが‘80〜‘90年代のF1でそれなりに活躍している事を考えると、消えるのが早すぎた気はする。
 いずれにせよ不名誉な『不発の欧F2王者』リストに名を連ねる事となった。

BT
 {Ultra Special Thanks:Mr.MCS-5( from 菜ナス軍団日記forWeb版)}



テオ・ファビ

 83年インディ500初挑戦にして初ポールを獲った勢いで、84年にF1デビュー、いきなり当時トップチームだったブラバムのドライバーとなり、ピケのチームメイトとなった。
 85年は、あのトールマン(しかもハートエンジン)で初ポールを獲得し、後にベネトンでも2回ポールを獲得するなど活躍したが、高速コースに強く、中低速のコースに弱いため、再びアメリカに戻ってしまった。
成績
Fabi
Fabi, TeoRacing Career - Teo Fabi.



クリスチャン・フィッティパルディ

 あの名ドライバーエマーソン・フィッティパルディの血を引くブラジル人ドライバー。走るトムクルーズとあだ名されるほどのハンサムボーイであった。やはり幼少の頃からカートに親しみ、11歳のときにカート・レースでの初勝利を経験している。以後17歳(1988)でプロフェッショナル・レーサーとしてフォーミュラ・フォード2000にデビュー、89年にはブラジルF3選手権のチャンピオン、90年には南アメリカF3チャンピオンに、そして91年には国際F3000のシリーズ・チャンピオンに輝いている。翌92年にはミナルディ
 からF1デビュー、途中フランスGPでの事故による負傷のため1年目は10戦に出走したのみで、シリーズ・ポイ ントも17位で終わっている。93年には同じくミナルディから参戦し、5ポイントをあげシリーズ13位、94年にはアロウズに移籍し、パシフィックGPとドイツGPで4位入賞を果たした。
 F1ではこのようにB級チームにいたため、いい走りをしてもマシントラブルが絶えず、常に実力を発揮できずに煮詰まっていた印象がある。
 しかし、1995年、インデイカーに転身したクリスチャンは、1999年に念願の初勝利を収めるなど新天地で活躍している。
成績
Fittipaldi

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