1974年 カート世界チャンピオン
1975年 フォーミュラ・イタリアで4強レース・デピュー。シリーズ2位,
1976年 ヨーロッパF3
1977年 ヨーロッパF2 シーズン途中でシャドウ・チームからF1デピュー。
1978年 アロウズ・チームでF1フル参戦
1982年 ブラパムへ移籍。モナコGPで劇的な初優勝を飾る。
1987年 最終戦でウィリアムズをドライブ。
1989年 ウィリアムズでシリーズ3位
1990年 サンマリノGPで7年ぷりの勝利
1991年 メキシコ、ボルトガルGPて勝利
1992年 日本GPで勝利
パトレーゼが生まれたパドアという所は、信心深い人々が住むことで有名で、長い歴史をたたえた街。そんな環境で育ったハトレーゼは誠実で穏やかな心を持ち、人に厭な印象を与えるようなことはない。スポーツマンで紳士的、おしゃれにもさりげないセンスが光り、人格者として知られている。 ところが、若い頃のパトレーゼは今の彼とは別人といえるほど気難しく、人づき合いも悪いというので評判だった。インタピューをしても笑うことはほとんどなく、受け答えも愛想がなかったというから驚く。 では何がパトレーゼを変えさせたのだろうか。そこにF1ドライバー、リカルド・パトレーゼの秘密が隠されているような気がする。
妻スージーは人気者
パトレーゼの低迷時代を支えたのが何といつても奥さんのスージーさんであろう。世界中のサーキットに足を運ぴ,グリッドでへルメットやドリンクを持ってくるおしどりぶりだった。 でも、彼女は冬場になると旦那を置いてパケーションに行っちやうというチャッカリした面も持っているからかわいい。性格もいいし美人だし、しかも、他のドライパーの奥さんたちに1番人気が高いのもスージーで、みんなスージーみたいになりたいと言っていたそうだ。リカルド主人も形無し。NO2の運命はここにもあったようだ。
ユダヤ系イタリア人ドライバーで、ミロの彫刻のような風貌でF1界きってのハンサムである。 しかも、プロ級といわれるスキーヤーであるなど、スポーツ全般をこなす非常にすぐれた運動神経をもつ。 一方、彼は大学(経済学部)を卒業した珍しい学士ドライバーであり、しかも趣味が「鉄道模型」と、派手なF1ドライバーというイメージではない一面も持ち合わせていた。
出場回数では、彼の右に出る者はなく、これからも出ないであろう大記録を保持している。例えば、ロニー・ピーターソンが事故死したレースに出場し、最後にはシューマッハーのNo2ドライバーになるまで大した事故にも巻き込まれず参戦し続けたことは、驚異的といわざるを得ない。ここまで永きに渡ってレースに参戦した者は彼以外にはいないのである。
穏やかな紳士であるイメージを持つ彼だが、若いときはロニー・ピーターソンが事故死したイタリアGPの事故のきっかけを作った張本人に疑われる(念のため、あの事故の原因はパトレーゼにはありません。ビデオ映像により後年証明されました。)など、「速いが荒い」というイメージを持たれていたようだ。シャドーチームを経てアロウズに移籍、アロウズの唯一のポールポジションを獲得したりそれなりに活躍した。
No2ドライバー人生がはじまったのは、ピケのNo2としてブラバムに移籍した82年からである。そこで幸運にも2勝を挙げることができた。
その後、アルファロメオ、ブラバム、ウイリアムズ、ベネトンを経て引退したが、晩年には「ベストセカンドドライバー」と呼ばれるように、完全にA級ドライバーのサポート役やマシンの開発等裏方役に徹していた印象が強い。
しかし、かつては彼にもA級になるチャンスはあったのである。(おそらくチャンスは3回くらいあった。)
デビュー当時は天才といわれ、早くも78年にはフェラーリからのオファーが...
しかし、イタリア人であることもあってこれがまとまらず、アロウズに移籍し、チャンスを逸してしまった。翌年のフェラーリは絶好調だった。次に79年、当時まだ新進チームだったウイリアムズからのオファーが...
しかし、それを断ってアロウズを選択してしまい、代わりにウイリアムズのA・ジョーンズは見事王者になったのである。
その後もアルファロメオや86年のブラバム(車体が異常に低いゴードンマーレイの大失敗作)への移籍はチーム運がないと言わざるを得ないでしょう。
また、256戦出場できたのはもちろん彼の実力であるが、彼がユダヤ人であったこともあり、同じユダヤ人であるF1界の首領バーニーエクレストンの後ろ盾があったことも彼にとっては大きなプラスであった。(特に、86年のブラバムは当時オーナーだったエクレストンの計らいがあったことを彼は公言しているし、88年のウイリアムズもエクレストンの力によって加入したと言われています。)
日本でも人気のあるドライバー。89年にベネトンからデビューし、いきなりブラジルGPで4位と鮮烈なデビューを飾った。
しかし、F3000時代に大事故による大けがをし、それが完治していなかったため途中でクビになった。
ハーバートは後にも先にもあの大事故が運のつきだったように思う。
その事故が起こったのは88年の7月のことである。圧倒的な速さで英国F3チャンピオンを獲得し、国際F3000に進出したハーバートは、第7戦となるそのブランズハッチのレースで、ポールからスタートした。しかし、ストレートを疾走中に、スイス人ドライバーのグレガーフォイテクの無謀な運転から発生した多重クラッシュに巻き込まれ、壁に激突し右足くるぶしの複雑骨折を負ってしまったのである。
病院のベッドの中でハーバートは将来をあきらめかける。それほど深刻な怪我であった。しかし、当時ベネトンのマネジャーであったピーターコリンズは周囲の反対を押し切り、ハーバートにシートを与えたのである。自分のマシンまで歩くことが出来ないほどの状態にも関わらず、デビュー戦で予選でチームメイトのナニーニを上回り、決勝でもなんと4位入賞を果たしてしまうのである。しかし、その後足が完治していないこともあってか成績は下降。シーズン途中で解雇された。
ベネトンをクビになった後、全日本F3000を経て、ピーター・コリンズによってロータスのレギュラードライバーに抜擢されるも、仁義を重んじる人のよさから何と5年もの長期契約を結んでしまい、その間のトップチームからのオファーを不意にしてしまったのである。(当時のチームメイトのハッキネンとはポイントでは若干劣るものの、何と予選で互角だったため、93年にマクラーレンやウィリアムズからのオファーがあった。)
その後、ロータスからリジェに身売りされ、95年にM・シューマッハーのNo2ドライバーとなったが、30歳を越していた彼にはテストドライブの機会すら与えられず、予選・決勝ともM・シューマッハーに大きく遅れるところとなった。
しかしながら、この95年は彼にとってのベストリザルトである年間総合4位を獲得し、ベネトンのコンストラクターズチャンピョンに大きく貢献した。また、ハーバート個人もヒルの度重なるシューマッハーへの激突などにより、念願の母国イギリスGPと伝統のイタリアGPを制することが出来たのである。
これらの勝利は、F3000時代の大事故による不運を穴埋めするかのような幸運によるところが大きかったが、特に、初優勝となった母国イギリスGPは最高で、レース後妻と抱き合って喜ぶ彼の姿は感動的であった。
翌年96年にザウバーへ移籍しフレンツェンと互角の走りを見せた。翌年97年、ハーバートは初のNO1ドライバーになり、モティベーションも高まり予選・決勝共に絶好調で、ほとんど1人でポイントを獲得し孤軍奮闘した。98年にはアレジのザウバー加入によってベテランコンビを組んだが、アレジ中心となったチームに合わせられずスチュワートに移籍することとなった。99年バリチェロとの間にも明らかに実力差が見られるようになってきたため、2000年の契約に関わらず今年度限りの引退が噂されている。ハーバートにとってまさに正念場を迎えている。
成績
Herbert
Johnny Herbert Johnny
Herbert
‘80年代のF1で、決勝レース中に亡くなった唯一*のドライバー。(*註:‘82年のジル・ビルヌーブの事故は予選時)
‘94年のサンマリノGP(イモラ)でラッツェンバーガー(予選時)とセナ(決勝時)が相次いで事故死した折、その名が久しぶりに取り上げられた。
1979年イタリアF3、‘80年欧F3&F2、‘81年欧F2で走っていたが、取り立てて好成績を残してF1にステップ・アップしたわけではなかった。
1982年にパイオニアのスポンサーを持ち込みオゼーラからデビューするが予選・予備予選落ちが多く、予選ベストリザルトとなったサンマリノGPは殆どのFOCA系チームがボイコットする中でのもので、14台中の成績。
また、せっかく予選を通過したレースでも途中赤旗となり、再スタート時に同僚にマシンを渡し未出走扱いになる不運もあった。(←デトロイトGP)
そしてこの年の第8戦カナダGPのスタートで悲劇が起こる。
ポールのピローニ(フェラーリ)がスタート出来ずに立ち往生しているところへ再後列スタートのパレッティが事情が分からず高速で激突。救助作業が行われている最中に出火までしてしまう。炎は比較的短時間で消火され救出されるが、衝撃によるダメージは大きく彼は帰らぬ人となる。
直前のベルギーで亡くなったジル・ビルヌーブの名を新たに冠されたサーキットでの出来事であった。
この1982年という年は政治的なドタバタも含めてなにかスッキリしないシーズンだったという感が強い。
パレッティについての印象はというと、この時まだ24歳目前の新人でチームもオゼーラだった事から実力云々は分からなかったが、眼鏡を掛けた痩せて神経質そうな顔からはインテリっぽさも漂っていた。
御冥福を祈りたい。
成績
もじゃもじゃ頭にエラの張った顔が特徴的な実力派イタリアン。欧F3では大活躍で、81年のタイトル以外にも80年のモナコF3で勝利を挙げている。
同じイタリア人としては活動時期も実力もミケーレ・アルボレート(80年欧F3チャンピオン)とライバルともいえる関係で、ある意味アルボレートに成り損ねたドライバーと言えるかもしれない。
アルボレートがF2と掛け持ちで81年からティレルでF1デビューしその後フェラーリのエースとして君臨したのに対して、バルディのF1でのキャリアは不発、あるいは宝の持ち腐れとも言えるものに終わっている。
実力を高く評価され、引く手あまたで争奪戦まで繰広げられたというF1挑戦だったが、結局1982年にアロウズで地味なデビューを果たす。(2度6位入賞)
83年は地元アルファ・ロメオに移籍するが、同僚の怪人・A-デ.チェザリス程は活躍できなかった。
84年は『ホンダ抜き』のスピリットにしかシートを得られず、無得点。そのまま翌年もそこで走るが不幸にも序盤でチームが活動停止に陥ってしまい、そのまま彼のF1のキャリアも終わる事になる。
チームやマシンに恵まれていれば、きっと名を残したに違いないと思わせるイタリアン・ドライバー達。(マルティニ、タルキーニetc…)彼も充分にそのリストに名を列ねる資格はあるだろう。
その後はWSPCのザウバー・メルセデスのドライバーとして大活躍。シルバーアロー帝国の隆盛に貢献している。
成績
F1ドライバー史上最大の憎まれ役。チャンプを狙える器ながら、伝説の英雄ジル・ビルヌーブと確執を起こしてしまったばかりにすっかり悪役扱いされている不遇の秀才型フランス人。故人。
後世、数多く書かれるジル・ビルヌーブの『物語』では、単に゛ジルの死因″のような印象しか与えないものも多く、それはちょっとばかしフェアではない気がする。
リアルタイムで知るファンにならともかく、そのような形でしか当時を知り得ない人達(その頃生まれていない世代にさえ)にまでそれを元に断罪されるのは酷というもの。それまで良好といわれた関係だっただけに、当時多くの人を困惑させた事件そして事故だった。
無論チームオーダーを無視するという行為は彼に非があり、『裏切り者』と言われても仕方あるまい。だがその件は責められるとしても、ジルを直接事故に遭わせた訳ではない。それ以降は結果論だと思うのだが…
‘70年代半ばのF3、F2を経て1978年にティレルからF1デビュー。初年度からコンスタントに入賞する。またこの年はルノーを駆ってル・マンにも優勝するなどフランスレース界のエリートらしい活躍をみせる。
‘79年もティレルで走るがチーム力が低下し足踏み。1980年には地元フランスのリジェに移籍しエース・J.ラフィーに見劣りしない活躍を見せ第5戦ベルギーで初優勝を飾る。
だがこの状態に満足せず翌年はフェラーリに移籍。後にこの移籍話はシーズン序盤の3月頃には密約が取り交わされていた事が判明し周囲を驚かせる。
現役の頃からビジネスマンとしての顔も持っていたが、それも頷ける計算高さも感じさせた。野心家・策士だとの見方もできよう。
そして‘82年。ジル亡き後フェラーリのエースとしてタイトル争いをリードしながら、ドイツGP予選二日目の大事故によって両足複雑骨折を含む重傷を負い引退を余儀無くされた。
雨で視界不良。前日のタイムでポール確実。しかも非計時セッション。一体何が彼を駆立てたかは不明。
スロー走行中のプロストが後から近付くデイリーを先に行かせるが、その更に後方から異様なハイペースで迫るピローニはデイリーが自分に道を譲ったと思い突進。だがその先にはプロストがいた…(この事が後にプロストが雨に敏感になる契機となる)
当時レース誌に掲載された救出を待つ彼の痛々しい顔はとても衝撃的だった。この他にも連発した事故への対策もあって、この年限りでウイングカーは禁止される。
その後必死のリハビリを経てパワーボート界で復活を果たす一方F1への想いも捨てていなかったらしく、‘86年にはリジェや新興のAGSをテストする姿が伝えられ、またラルースからの復帰の話もあったようだ。
だが1987年8月、イギリスでのパワーボートの大会中の事故で帰らぬ人となる。突然の訃報だった。
無口で上品・物静かな紳士と紹介されたが、クールというよりニヒルという表現が似合っていた。時としてその静かさが一変して攻撃的な走りを見せる事もあり、特に1979年のモナコでの走りは『蛮勇』と評される程の激しさだった。この静と動の二面性が或いはあの行動の背後にあったのかもしれない。
他の誰よりもフランス人らしくも感じられたが、実はネイティブ・イタリアン(フランス生まれのイタリア人)だという話も。この辺りも彼の二面性と関係あるのだろうか?
『物語』は時が経つにつれ『伝説』へと姿を変えてゆく。当然『悪役』の姿も一人歩きするだろう。それに対しての反論はもう彼からは聞く事は出来ない。いや、存命だったとしても無口な彼が多くを語る事もないのかもしれないが…
バイク便のライダー以外にも若き日のデーモンはいろいろなことを経験している。建築現場の作業員やロックバンドのギタリストなど様々だが、中でも「セックス・ヒットラー・アンド・ザ・ホルモンズ」というとんでもない名前のパンクバンドのギタリストをしていた。(古館氏は、ウイリアムズでセカンドドライバーだったころのヒルについて「面立ちはジョージハリソン。まさにチーム内サイドギター!」と評していた。)F1界でのギターの腕前はアーバインと1,2を争うが、最近はサーフィンにこっているそうだ。
ところで、1999年でヒルは引退してしまう。古き良きドライバーの香りをもつ一人がまた消えていってしまうのは残念。彼の実力があるのかないのかわからないところはB級ファンにとってたまらない魅力であった。プロスト、マンセル、セナ、クルサード、ヴィルニューヴなどの蒼々たるチームメートにひけをとらず、遅いデビューながらすばらしい記録を残し、トップチームでないアロウズをあわや優勝に導いたり、ジョーダンを初優勝させたりしたことなどから、彼の実力は十分に示されているにもかかわらず、晩年までその実力は疑われていたのはなぜだろうか。ヒルが引退を発表した時のシューマッハーの驚きを隠せないコメントは、ヒルのいないGPの寂しさをよく表している。
成績
Hill
Damon Hill WebsiteDamon
Hill Dot ComDamon Hill Damon
Hill ActionJulien's Damon Hill
HomepageAll New
Unofficial Damon Hill Site Damon
Hill [geocities.com]
兄同様スノーモービルやフォーミュラ・アトランティック(FAt)等で活躍し、1981年の終盤の北米シリーズ2戦だけS.ストールの代わりにアロウズからF1挑戦のチャンスを得る。
ジルのマネージャーのアレンジによって実現した話のようだが、2戦とも予選落ち。また‘83年にはRAMから1戦のみエントリーするがやはり決勝には進めず終わっている。
FAt時代は兄以上の逸材との評価もあったようだが、この結果だけを見ればにわかには信じ難い話ではある。
雪煙で視界の効かない中を突っ走るスノーモービル・レース(註:そのハードさによってジルも鍛えられたという話)やFAtで何度もチャンプを獲得するなど決して凡才ではないと思うが、兄が超がつくスーパースターだっただけにちょっとやそっとでは認めてもらえないのは辛いところ。やはり血統だけでは勝負の世界は戦えないという事か。
最近のブラザーズ参戦といえばシューマッハ兄弟だが、少なくともラルフ位には光るところを見せておかなくては世間も承知はすまい。
そう考えると『親の七光り』と陰口を叩かれながらもちゃんとチャンピオンに輝いた甥のジャックとかデーモン・ヒルというのは立派だと言えるだろう。
その後はCART(インディ)などに参戦。CARTでは1985年に1勝を挙げ実力を証明している。
願わくば兄上の分まで長生きしていただきたい。
見るからに朴訥で職人然としたドイツ人ドライバー。
フル参戦はウイングカー最後の年となる1982年にドイツ系のATSから。万年B級のATSながらデトロイトの市街地コースで予選5位、またそれに先立つブラジルでは5位入賞と
非凡なところを見せる。
F2の頃からBMW系ドライバーで、その縁でATSは‘83年にブラバムと並んでBMWのターボエンジンを手にいれる。が、チームも彼自身も‘82年以上の成績は出せないまま2シーズンを終える。
結局‘84年でチームは活動停止するが、最終戦だけ彼はT.ファビ の替わりにブラバムに乗っている。
‘85年 はハート・ターボを積むRAMに乗るが、シーズン途中にF1の傍らにクレマーポルシェで参戦していた世界耐久選手権(WEC)のカナダ戦の事故で亡くなっている。クラッシュの際に室内のロールバーとぶつかった衝撃が致命傷になったといわれた。(その数週間後、奇しくも同国の俊英S.ベロフも同シリーズのスパでポルシェに乗って亡くなっている)
1980年のニュルブリクリンクでの欧F2では走行中ジャンピングスポット状の坂から舞い上がり、何度も縦回転する程の激しいクラッシュを起こしているが奇跡的にほとんど無傷で脱出している。
事故の激しさは当時滅多にモータースポーツなど放送する事のなかったNHKでも流される程だった。しかし5年後のカナダ・モスポートパークでは、残念ながら奇跡の再現は起こらなかった。
その数年後、兄の遺志を継ぐように弟・ヨアヒムもF1に挑戦するも目立った成績は残せずに終わっている。
だがツーリングカーやスポーツカーなどの分野では活躍し、‘99年のル・マン24時間ではBMWに勝利をもたらしている。
ブラバム、ベネトンで活躍したテオ・ファビの弟。兄に似ず可愛い顔立ちだった。
幼くしてカートに乗り始め、10代半ばで早くも名門ビレル・ワークス、続けてイタリア・ナショナルチーム入りを果たす。そこでのチームメイトは故デ・アンジェリスやデ・チェザリスという面々。
トップ・カーターとして名を成した後、1979年にはF3でフォーミュラに乗り始め、‘80年にはアルボレートのチームメートとして欧F3に強豪ユーロレーシング(伊:マーチ・アルファ)から参戦、2勝を含めセンセーショナルな活躍をみせる。(註:チャンプはアルボレート)
続く‘81年にはすかさずF2にステップ・アップ。マーチ・ワークスから欧F2を戦い初年度から1勝、そして翌1982年のヨーロッパF2選手権で5勝を挙げてジョニー・チェコットとのタイトル争いに競り勝ち、若干21歳で見事チャンピオンに輝く。当然F1界からも注目され、ブラバムのテストドライブのチャンスも得る。ここまでは順風満帆…だった。
タイトルを引っ提げて翌83年からF1デビュー。だがチームはブラバムではなく万年弱小オゼーラ。そのせいもあり予選落ち連発。なんとなく雲行きが怪しくなってくる。
続く‘84年はシリーズ中盤兄・テオがCARTに挑戦する間の3戦だけブラバムで代走。F1史上でも稀な兄弟リレーが見られた。これにはF2時代から縁の深いBMWの後押しもあった模様。
ここでアピールしておけば未来が開けたかもしれないが、トップチームのマシンながら平凡なリザルトに終わっている。この年まだ23歳の若さだったがF1の道はここで終わりになってしまった。
最初のチームが悪かったのか、F2とF1ではレベルが違い過ぎたのか。あるいは若すぎたのか…
F2までが凄まじかっただけに、本人も周りも無念だった事だろう。
カートやF3/F2の同期の連中の多くが‘80〜‘90年代のF1でそれなりに活躍している事を考えると、消えるのが早すぎた気はする。
いずれにせよ不名誉な『不発の欧F2王者』リストに名を連ねる事となった。