(Absolute Skatingより)
トリノで開催されたヨーロッパ選手権で、第3位という素晴らしい成績を上げた後、イザベル・デロベルはアブソリュート・スケーティングのためにインタビューの時間を割いてくれ、トリノで経験したこと、彼らのこれまでの活動について語ってくれた。
――トリノでの演技の出来映えはどうでしたか?満足していますか?
そうですね、私たちがここに来たときメダルを取れたらいいなと思っていましたが、もちろん実際どうなるかは分かりませんでした。けれど練習はいつも上手くいっていました。コンパルソリーは良いできだったし、オリジナルダンスは今までの中で一番良い出来だったと思います。
――けれど、特にオリジナルダンスでは相応しい点数を出してもらえませんでしたね。多くのオブザーバー(?)がこの点で意見が一致しています。
オリジナルダンスの後、フランスのメディアに「どうしてこの得点をもっと不満に思わないのか?」と訊かれました。ですが、私たちは自分のすべきことをしたし、残念がることは出来ません。だって、とても良く滑ることが出来たのですから。もちろんもっと高い点数を得ることが出来たらもっと嬉しかったと思いますが、高得点が得られなかった理由を自分たちの演技のせいにすることはできません。だから今も満足しています。
――オリジナルダンスが終わった後、まだメダルを獲得できると思っていましたか?
はい、だからフリーダンスは良い演技をしなくてはいけないと分かっていたし、自分たちにはそれができると思っていました。金曜日に私はとても興奮していたし、「多分今夜メダルを獲得することが出来る、多分私は泣いてしまう…」と心の中で思い描いていました!フリーダンスが始まったときは「さあ、メダルのことは今は考えてはいけない、ただフリーダの事を、彼女がどう考えていたかだけ考えなさい…」ということだけ思い描いていました。
――銅メダルを獲得したのが分かった時、あなたが泣いていて、キス&クライの後ろに隠れたのをみましたよ。
そうです…(笑い)。とても嬉しかったんです。私たちはフリーダンスでグルシナ&ゴンチャロフに勝ちました。沢山の人たちが表彰式の後お祝いに来てくれて「素晴らしい演技だった」と言ってくれました。
――さて、このメダルはあなたにとってどんな意味がありますか?
来年のオリンピックを前にして、私たちがメダルを取ったということです。今年取らなければいけなかったんです、分かりますよね?(微笑む)まだメダルを取ったということに気付かなかったんです。
家にいた父が電話で「始めのチャンネルでも、次のチャンネルでも、どこの番組にもお前が映っているよ」と言っていました。今、人々は私たちのことを知っていて、以前のヨーロッパ選手権では5位か6位だったのが、今回は銅メダルを取ったことを知っています。
――リンクや観客はどうでしたか?
最初にここで練習したとき、すぐにリンクを好きになりました。清々しくて、圧迫感をを和らげてくれて、ソルトレークシティのような圧迫感はありませんでした。
――ですが、フランス選手がリンクに上がったとき、観客はブーイングをしていましたよね。
ええ、でもそれはサッカーの試合でフランスとイタリアのファンがが争っていたせいだと思っています…それにフリーダンスではとてもいい反応をしてくれたし。スピンとリフトで演技を始めて、リンクを横切ったとき、観客はもう拍手をしていたのが聞こえました。オリビエと私にとって、ダンスは4分ではないのです。始まって、突然終わっている――時があっという間に過ぎているのです。
――今までの演技の中で最高の出来でしたか?
はい、そう思います。カップ・オブ・チャイナでとても良い出来で滑ることが出来ていたので、トランジション(繋ぎの部分)を少し変更しました。それ以降のフリーダンスはさらに流れが良くなりました。
――今年はあなた達にとって大躍進の年でした。突然全てが上手くいった。あなた達は毎年良い出来だったのに、今年になってとても多くの人が「彼らは素晴らしい!」と言っていました。何が起きたんでしょう、今までの演技と今年の演技は何が違うのでしょうか?
実際、それほど多くの違いはありません。オフ・アイスの練習にパーソナル・トレーナーを起用したことでより集中できて、もっと厳しい練習を擂る必要があることに気付きました。ともかく、今年は競技に対する姿勢が違っていました。
――昨年、あなたとオリビエは、二人ともサイドバイサイドのステップシークエンスで転倒が多かったですね。なのに今年は転倒がない。どうしてでしょう?
分かりません。以前はとても神経質になっていました。ですが、夏以降こう考えるようになったと思います――人生には、ただスケートを滑る以上のことがある、と。たぶんそんな理由で、以前より失敗に対する緊張を減らした、リラックスした態度で臨めるようになりました。私にとって、スケートは全てです。けれど、私の選手生活が終わった後も、人生を続けていかなければいけないことも知っています。だから、自分に対してこれ以上のプレッシャーをかける必要がないということは、多分助けになります。昨年、練習はいつでも上手くいっているわけではありませんでしたが、今年突然とても良い調子に感じ、全ての練習が上手くいきました。一層の自信を持って演技できていると感じています。
――モスクワでの世界選手権をどう予想していますか?
沢山練習をして、もっと努力する必要があると思っています。なぜならみんなが私たちを待っているから!(笑い)それから、2月にはベルリンに行って、アンジェリカ・クリロワとパスカル・カメレンゴと一緒にプログラムの仕上げをします。
ベルビン&アゴストを加えた選手達の間で、メダル争いがあると思います。
――新採点システムについてはどう考えていますか?
2位から1位に上がるのが以前より容易になったので、良くなったと思います。以前はコンパルソリーダンスやオリジナルダンスで一位を取ると、よほど大きな失敗でもしない限り最終結果でもその順位を維持していました。今は、全ての要素をそれぞれ採点しているので、フリーダンスで良い演技をすれば差を付けることが出来るし、(CD,ODで)一位だったカップルを抜くことも可能です。
――しかし新採点は制限がありすぎるせいで、フリーダンスが似たような内容になっているという批判があります。
その通りです。しかしこの採点方法が導入されたのはつい最近だし、より良い方法に調節することが可能です。もっとも個性があって、技術と個性を組み合わせた組が勝つと思います。
――次のヨーロッパ選手権はホームであるリヨンで開催されますね。何を期待していますか?
最高!(微笑む)メダル、もしかしたら金メダルを巡って、激しい戦いになるでしょう。自分たちより上位にいる組とでも戦えるような気がします。心配はしていません。
――さて、みんな興味があると思うので、あなたの経歴について少し話てください。オリビエとはいつ、どのようにしてカップルを組んだのですか?
私はクレルモン・フェラン出身で、オリビエはベルフォート出身です。私がスケートを始めたのが6歳、オリビエが8歳です。兄と一緒にスケートを始めて、兄は別のパートナーと組んでいました。1990年にリヨンでスケートのコースを取って、その時オリビエもいました。ロシアのオリンピック・チャンピオンのモイセノーワ&ミネンコフもそこのチームにいて、こう言ったんです「ああ、この金髪の男の子と黒髪の女の子…一緒にやったらとても良いね!」それから母が「リヨンでスケートをしたい?」と私に訊いたので、わたしは「はい!」って答えました。オリビエも同じで、そんな風にして私たちはカップルを組んだのです。リヨンは以前から指導者で有名な場所だったから、私はものすごく行きたかったんです!最初の一ヶ月は別のコーチでしたが、それ以降はミュリエルがコーチになりました。
リヨンに着いたとき私は12歳で、すでに一人で生活していました。私たちは自分の部屋を持っていたけれど、キッチンは他の生徒と共有でした。料理も自分で作らないといけませんでした(笑い)。
――淋しいと思ったり、両親が恋しくなりませんでしたか?まだ小さかったのに!
もちろん淋しかったけれど、でもそれほどではありませんでした。私はスケートがしたかったし、それが私の人生でした。そして、全てがそこから始まったのです。私たちは1995年のジュニアオリンピックで優勝したから、マルセイエーズ(フランス国歌)を聴きました!それから1996年ブリスベンで開催されたジュニア世界選手権では銀メダルを獲得しました。コンパルソリー・ダンスとオリジナル・ダンスまでは一位でしたが、フランスのジュニアでは初めてのことだったんですよ!けれどフリーでは2位に終わってしまいました。ロマン・コストマロフがカテリナ・ダビドワと組んでいて、優勝しました。今も同じですね(笑い)
――オリビエと一緒に出場した最初の競技会を覚えていますか?
はい、ペアを結成して1ヶ月後でした。ベルフォードで開催された大会です。とても上手くいって、2位でした。プログラムをまだおぼえているし、「オーケー、これがオリビエと組んだ最初の大会ね」と思ったのを覚えています。それからまだ一緒に滑っています、15年間も!
――その間沢山のプログラムをオリビエと滑りましたね。どれが一番気に入っていますか?
Johnny Hallydayの「Vivre pour le meilleur」です。2000/2001シーズンのものです。音楽が好きだし、滑っているときはいつも楽しかった。練習中に誰かが曲を流して、ミュリエルは私たちのために偶然あの曲をかけたのです。「これは私たちのためだ!私たちの曲だ!」ってすぐに分かりました(微笑む)。
――普段はどのようにして音楽を選択しているのですか?あなたとオリビエとミュリエルが一緒に選ぶのですか?
いいえ。だれでも好きな曲を他の人のために選んで、それから決めます。音楽に関してはいつも合意することが出来ます。
――1年間タチアナ・タラソワと一緒に練習をしましたが、ミュリエルの元に戻りましたが、そのことについて教えてもらえますか?
ええ。彼女が私たちのコーチになれるか尋ねてきました。彼女は伝説的な人です、だからもちろん光栄に思いました。私たちはすでにアメリカで練習の一部を行っていました。なぜならミュリエルがオリンピックに向けてアニシナ&ペイゼラのためにより多くの時間を割くようになっていたからです。だから私たちは移籍することを決めました。
アメリカでの生活はあまり良くありませんでした、お金もなかったし、シンスバリーではやることが本当になかった。ただスケートをして眠り、食べ、そしてまたスケート…(笑い)。それから妹が恋しくなりました。それが12歳の時家を去ったときとの大きな違いでした。私と家族の間には大西洋があったんです!
それから、幸せじゃないときはいい物を作り出すことはできません。スケートは心と一緒に滑るものだから。たとえ私がタチアナとスケートを愛していても、何かが淋しかった。
とにかく、フリーダンスのあとタチアナが来て、こう言いました「あなたがもっと上手に滑れたことを私は知っていた。今やみんなが知っている!」(微笑む)
――そしてあなたはフランスへ戻った。ミュリエルの反応はどうでしたか?
良かったです!彼女は私たちが精神的に良くない状態にあるのを理解して、私たちを助けたいと思ったのです。私たちはお互いに非常に好意をもっています。けれど1年目には、まだ少し難しいこともありました。お互いにもう一度信頼することを学ばなければいけませんでした。
――「フリーダ」の音楽を決めたのはどうやって?
「この映画を見て!」とミュリエルが提案して、私が音楽を聴いて「私たちのための音楽だわ!」と言いました。この女性にとても感銘を受けたのです―全ての悲劇が彼女の身の上に起きたにも関わらず、人生の良さを理解し、人生を続け、人生を信頼する彼女に。
音楽を選んで、モザイクのように音楽を配置していきました。フリーダンスの最後はスローパートで終わることに決めました。これは観客やジャッジには馴染みのない形式だったけれど、何か異なった、より情感のあることをしたかったのです。
この音楽はとても内面的な音楽で、深いところから来ています。多分来年は全く違う音楽を選びます。
――今までで一番好きなプログラムは何ですか?スケーターとして尊敬する人は?
グリシュク&プラトフ。彼らの1997年の「The Passion of Christ」が一番好きです。私にとって、このプログラムは「ボレロ」のような見本のプログラムです。何度も見返しました。もしいくつかの点で彼らのようになることが出来たら、私にとって最高の瞬間になるでしょう。将来、彼らのように思い起こされるようなスケーターになりたいです。「デロベル&ショーンフェルダー」について人々は語らなくても、「あの、彼ら」と語られるような(笑い)。人々の記憶に残ることは、私にとって金メダルを取ることよりも価値があるんです。
――オリビエと一緒に滑って15年になります。その間に、別々に滑ったり、パートナーを変えようと考えたことはありますか?それともお互いが一緒にリンク上にいる方がいいといつも思っていましたか?
パートナーを解消しようと思ったことは一度もありません。
――お互いの関係はどのようなものですか?文句を言うことはありますか?大体は上手くいってますか?二人はとても異なった個性の持ち主ですよね?(マリーナとグウェンダルのように)
そうね、オリビエはとてもストイックで、簡単にはショックをうけません。反対に私は外向的で興奮しやすいです。だから私たちは二人で満たされているのだと思います。お互いに信頼しあっているし、尊敬と信用があります。私たちは友達ですが、一緒に映画を見に行ったりとか、そういったことはしません。
――将来の計画は?スケートを続けるのはどのくらいでしょう?
2006年のトリノオリンピックの後も間違いなく競技を続けるし、その後も怪我がなければ多分2010年のオリンピックまで続けると思います。
――ありがとうございました。世界選手権も頑張って下さい。
→上に戻る