想像力-思いやり
01.03.2001





 「陰口」といえばその人がいない所で、その人の悪口を言うといった マイナスイメージを持った言葉ですが、多くの人は良い悪いに関わらず 自分がいない所(陰)で自分がどう言われているか、どのように評価 されているか、といったことに関心を持ってしまうようです。 また自分でなくとも、ある人のことを他人がどのように見ているか、 捉えているか、に興味を覚えるように思えます。


僕は個人的に当人がいない所でその人物を評価するような発言を することは好きではありません。しかしながら時には、必要に迫られたり、 他人から発言を求められることもあり、なにかしらの人物評らしき ことをすることがあります。


もちろん毎回というわけではありませんが、僕のそうした発言はそれなり に的を得ていることが多いようです。僕の言葉を聞いて、
「観察力鋭いよね。」
とか
「結構その人のことを分析してますね。」
などと言ってくれる人もいます。
僕としてはそんなに注意深く観察しているわけでもないし、ましてや 分析などしようとも思いません。ただなんとなくそうじゃないかな、と 感覚的に想像して思うだけなのですが、どうやらそれは 誰にでもできることではないようでした。


恐れ多くも僕が人の気持ちを読める、などと言いたいわけではありません。 傲慢にも読もうなどとは思いません、ただ感じるだけなのです。 人の気持ちがわかるわけはありません。ただそうじゃないかなと思うだけなのです。


 僕は自分が特別であるなどとは思いませんし、ちょっと考えたら 分かることなのではないかとしばしば思うのですが、意外にも多くの 人にはそれが苦手であるようでした。


”それ”を別の言葉で言い換えるならば
「他人の思いや感情への想像力を働かせること」
でしょう。


前回のメール「アイデア」でも触れました想像力の欠如が多少なりとも 関係してくるのかもしれませんが、その想像力を面白い視点から捉えて いる文章に出会いました。


食べるという経験
食べるということにはどこか、わたしたちの想像力の核となるものを 育むところがある。他人といっしょに食事をするというのは、楽しいだけ でなく、想像力を養うところがある。他人が舌や喉で感じているその味わ いは想像力をはたらかせないとなかなか共有できない。他人の思いや 感情への想像力は、このようにともに食べるなかで育まれてゆく。 他人の思いへの思い、それはこういう食事の席で養われるのだ。[1]


家族で食卓を囲むといった光景があまり見られなくなってきている現状 は想像力や思いやりの欠如といった負の一面を助長しているといえる のかもしれません。


 世間では中高生による常軌を逸した犯罪が多発しています。常識では 考えられない、そう口をそろえて言うけれども、現在ではその常識の 存在自体がすでに怪しいのです。その行動によって起こりうる結果を 現実のものとして想像することができない。しかし、それを想像できなく している社会があることを忘れてはならないでしょう。


多くの問題を抱えると言われる日本社会、文明社会に対し、次のよ うな指摘も見られます。


臭いモノに蓋をする市民たち
 ゴミ、物乞い、障害者、あるいは死。これらが、ヨーロッパや日本、 つまり《文明》を掲げる国々では、なるべくなるべく、善良な市民から 見えないように蓋がされている。ゴミは清掃車がそっと持ち去り、 物乞いは社会保障により救済され、障害者は施設に収容され、 死は病院で人知れず宣告されるのだ。僕が「蓋をしている」と表現 するのは、そこに何ら根本的な解決がなされていないと感じるから である。そうした、《文明》にとって不愉快な現象を排除することが、 すなわち「近代化」を意味するのかもしれない。 [2]


IT社会の進展に伴い、大量の情報が得られる反面、その弊害として 有害情報にさらされる危険が憂慮されていますが、生きていく上で最も 基本的で重要な意味を持つ出来事までをもいっしょくたにして見えない ように隠してしまうのはいかがなものでしょう。


始めから大人が危ない、よくない、として抑制してしまうことにより 本来身をもって学ぶべきことがなくなり、そういったものに対する 想像力を働かせることがなくなってしまう。


先生からビンタをもらえばその痛みは忘れないし、殴り合いの喧嘩を すれば限度は分かるし、山に入ればかぶれもすれば切り傷だって負い、 怪我して血だって流すこともあるでしょう。 食肉はパックになってでてくるものではないし、人はいずれ死に至り、 生き返ることはないのです。


目の前にない出来事や過程を想像することが困難になっていきます。 身近にない問題や環境、境遇に対して無関心でいられてしまうわけです。



他人の気持ち。
見えないものの中で一番身近で代表的なものではないでしょうか。 身近でないものに対し、想像力を働かせ、思いをよせることは できることが理想だとはいえ、確かに難しいことかもしれません。 せめて身近にある「他人の思いや感情」への想像力、その先にある 思いやりを持つ努力をしていきたいものです。


参考
1. 「悲鳴をあげる身体」、鷲田清一、PHP新書
2. アジアスケッチ: 虚構の世界
「アジアスケッチ」