捨てる技術
09.13.2000



あなたは物を捨てる派?取っておく派?


なにげなくつけたテレビのチャンネルは某国営放送に 合っていた。
「クローズアップ現代」
始まった番組を横目にごそごそと辺りを片付けていたのだが、 番組で取り上げられている内容に耳が止まった。


ベストセラーとなっている
「捨てる!」技術
という本をとりあげていたのだ。


 どこの書店に行っても、たくさん平積みにされているので、 それを目にした方は多いであろう。すでに買って読んだ、手にとって みた、という方もあるかもしれない。 僕がその本を始めて目にした時、とっさにした判断が、 読む必要なし、 というものだった。


 個人的によく本屋に行くほうであり、どんなジャンルのものでも 興味を持ってとりあえず手にしてみる性質ではあるのだが、 その本は手にとってみる気にもならなかった。 書いてある内容が想像できたこともあったし、何言ってんだと 反感さえ抱いてしまうと思ったからだ。


 番組ではこの本を読んで、今まで捨てられなかったものを思いきって 捨て始め、生活を大きく変えた、という人達が主に取り上げられていた。


 いつか役に立つかもしれない、と取っておいたものがたまってしまう。 著者曰く、その”いつか”は来ないんだということがわかったんです、 だそうだ。だからとっておこうか迷うぐらいなら捨ててしまえ、ということらしい。 捨てられるものはすぐに選別して捨ててしまう、物に囚われないで 生きる。こうした意見にどうやら多くの人が同調するらしい。


特別コメンテーターとして番組では立花隆氏を迎えていた。
女性キャスターが聞く。
「立花さんは捨てるほうですか、取っておくほうですか?」
有名なネコビルを持つ氏である。答えを半ば予想しながら尋ねて いる感じだ。しかしそう思い通りに答えるはずもない。


「どちらかといえば取っておくほうですかね、ですがこの本で言っている ようなことはとっくに実践していますよ。」
氏は続ける。
「だいたい捨てようと努力すること自体が無駄なんですよ。人間の脳って のは物が溢れてきたら捨てるよう命令を出すようにできているんです。 自然に頭にまかせておけばいいんですよ。」

この後もいくらかやりとりが続くがどうも会話が噛み合っていない。 無理もないかもしれない。所詮土台が違いすぎるのだ。


捨てる技術実践者たちが次のように言っていた。


「物を捨てないとそれにこだわってしまって新しいことができない ような気がするんですよ。新しい発想が生まれないというか。」


「捨てることによって自分に本当に必要なものは何なのか、それ がわかるような気がするんです。持っている物によって自分という ものを確認するんじゃなくて、捨てることによって自分自身と向き 合える、自分自身がわかるようになる。」


逆に私は絶対物を捨てない、という人も登場する。
「どんな物にも必ずどこかに利点があるんです。役に立つんです。」


 さて僕は、といえばどちらに対してもNOである。 ものにこだわってしまい新しいことができない、本当の自分がわからない、 という人は言い方は悪いがその程度、ということだ。  これから大事なのは記憶ではなく発想だ、ブレイクスルーだとよくいわ れるが、全く無から生まれる発想というのはないだろう。 無知から生まれる発迷案はあるかもしれないが。


 いろいろなことを知ることにより、いろいろな物から、我々はアイデアを得る ことができる。人間の脳の容量がいくら大きいとはいえ、その記憶を効率 よく取り出せなければ意味が無い。 そんな時、助けとなるのがそこにあって見ることができる”もの”である。 そのものは脳を刺激し、記憶を呼び起こしてくれる。


読み終えた本もその一種である。

いつかまた読むかもしれないから、と取っておくのではなく、読み終えたら 捨ててしまえ、と声高に主張する本があった。 物理的に本を置くスペースがない、というような理由が無い限り、僕は 本はとっておくべきであると思う。 おいてあってもそれをもう一度読み返すなんてことはまず無い、それはそう かもしれない。読んだ内容だって忘れていってしまう。 読んだものを消化し、吸収し、残りは排出してしまえばそれでよいのだろうか。


所詮人間なんて忘れる生き物だし、覚えていない、記憶に残って いない本はその程度のものだったんだから。
そう言う人がいるかもしれない。 こういう言葉を知っているだろうか。 


”およそ覚えようと努力することなしに得られる知識は いかほどのものでもない”


 手元から無くなってしまえば、その本を読んだということ自体を忘れて いってしまうのだ。その本が自分に与えてくれたものを自ら放棄してしまう。

そんなことはない。読んだ本ぐらい覚えている。少なくとも見れば思い出す。 そう思われるかもしれない。

その通り、見れば思い出す。見なければ思い出せない。

 確かに置いてあっても内容までしっかり覚えているわけではない。 だがその本のタイトル、表紙を見ることによりどこか遠く、深くにある 記憶、それが本の内容に関するものでなくてもなんらかの記憶が 呼び起こされることがあるわけである。 それらの記憶はアイデア、発想の源、切っ掛けとなる。 こうして文章を書いている時にも時々本棚に目をやる。 本の内容を思い出そうとするのではない。それらの本を見ることにより 浮かびくるイメージ、言葉を捉え、生かそうとするだけだ。


そんなわけで僕は本を借りて読む、ということもあまりしない。 確かにお金はかかってしまうが、買って読み、保有する。


 本の知識ばかりに頼って自分の考えってものが持てないのでは、 と疑問を呈する方もおられるが、考えてもみてほしい。 自分の意見だ、と大きな顔をして言っている大多数のものは、 どこかで誰かから聞いた話であり、どこかで読んだものなのである。 本当にオリジナルな自分の考えを言える人はほとんどいないのである。


別に悲観することではない。
ただ大事なことは時には己の頭を悩ませて考えてみることである。 自分の発する意見、言葉に時には注意を促してみることである。 よく考えてもみずに意見を述べる人がいる。そういう人の意見はすぐに それと分かる。そういう人の言葉には重みがない。


話がだいぶそれてしまった。

 持っているものにより自己を規定する、物に縛られる人がいる。 ものをたくさん持っていても、それに執着せず、自分を離れた所に おくことができる人もいる。


「捨てる!」技術
が単に今までもったいないから、と捨てられずに溢れ出したものを 捨てるという、まず当たり前のことだけを言っているのならまだわかる。


デパートでもらう紙袋などある程度の数さえ確保したら後は捨てる のが自然なのだ。なんでもかんでもとっておく、というのは現実的ではない。


実際本を読んだわけではないので詳しい内容は知らないわけであるが、 番組ではどうも捨てることがいいことだ、Simple life だ、といった ちょっと拡大解釈をしすぎているように思える側面もあった。


またその題名だけが一人歩きし、本を読んでいない人にまでそういった 影響を及ぼしてしまっているのではないか、という危惧さえもある わけである。


過去のものを捨てなければ前に進めない、ではなく、
過去のものを捨ててしまったら前に進めない。


過去は捨てられないし、年はとらずにいられない。 過去があるから今がある。 そうは思えないか。 年を食う、という。 どうしてそんなマイナスイメージの言葉なのだろう。
年は重ねるものである。


持っているものを自慢する人に対して、それをとってしまったらあなたは 何者なのですか、と問う人がいる。 所有しているもの、それらすべてを含めてその人の個性である。 他人にとってくだらなくても、私にとっては大切なものだってある。


たしかに物が溢れてきている。だからと言って 「捨てる」ことに必死になる。それってなんか貧しくないか。 人のcapacity、精神的な心の容量が減ってきてしまっているのはなぜだろう。 とりあえず、、とか、捨てるのは、、とか悩むのではなく、それを自分がどのよ うに扱うべきかを自分で判断できないか。


立花隆氏がこうコメントした。


「”捨てる技術”自体が捨てる技術ですね。」


相手をしていたキャスターは、番組製作者はそれをどう受けとめたのか。 番組を締めくくるにあたり、最後に女性キャスターが放った言葉がこうだった。


「さて、あなたは捨てる派、捨てない派、どちらでしょう?」


全くもってあきれてしまう。
キャスターは、もしくは番組製作者はいったい何を考えているのだ。 当然リハーサルだってしているはずだ。立花氏の意見も聞いているはずだ。 なのにこの締め方はなんだ。


ありきたりの、当初から用意された台本通りの締めの言葉。


こんなところに公共料金を払っているとは、と最近払うはめに なってしまったばかりが故に余計に苛立ってしまう。 捨てるか捨てないか、どちらかを選ぶものではない。 YesかNoか、どうして二元論的な考えしかできないのか。


入学試験の弊害により丸かバツかでしか判断できなくなっている と指摘される。 日本人は曖昧だからダメだ、と言われ極端に何事もはっきりさせ なければならないとへたに欧米化してしまっている人もいるようだ。


論理的な言語だとされる英語にだって
「Yes and No」
という答え方があるのだ。


ある面では間違っていても、ある面では正しい。
それは矛盾ではない。
黒か白かじゃない。1か0かじゃないだけだ。


ITだ、デジタルだと近頃はことに騒がしいが、 世の中がすべて1か0かには、ならないでほしいものである。