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■−親爺の雑俳−
神業を
続けて十年
すごいヤツ
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親爺乃世迷言
■平成23年(2011年)12月5日
■平成23年の師走号
■談志がシンダ。私にとっての立川談志
■越智 健
私が初めて談志師匠を目にしたのは、昭和44年(1969)の秋だった。立川談志、33歳の年だったか。私はその年の春から北海道の田舎から上京をして学生生活をはじめていた。
秋に行われた学園祭で、談志師匠は学内の1500人近く入る大ホールの舞台に立っていた。落語家がなんたる職業か、どんなことをする人かも、うすぼんやりとしか認識していない私にとって、その舞台でのトークはいやはや驚いた。学生で埋め尽くされた満場のホールはドカン、ドカンの大爆笑、とにかく凄かったという思いはいまも覚えている。
でも、その頃の私の中では着物を着て高座に上がっている談志師匠の認識は薄かったのかもしれない。その証として、私はしばらくしてから噺家としては志ん朝師匠を追っかけ始めていたのである。その頃、四天王として呼ばれていたのは志ん朝、談志、圓楽、柳朝だった。
噺家として談志師匠は凄いという思いはあっても、実際追っかけていたのは志ん朝師匠の方であった。そしてそれは志ん朝師匠が亡くなるまで続いた。
今、談志師匠を亡くして、談志師匠は私にとっては、と考えてしまった。追っかけた志ん朝師匠は憧れの噺家であり、一愛好家として、客として聴いていただけだったが、談志師匠は私にとって一期一会ではなく、二度の出会いがあり、私にとって思い出深いものである。ひとつは、会社の先輩が会社を辞め、青森の県議会議員に立候補し、政治家になるという。何とか受かってほしいと考え、当時参議院議員だった談志師匠にお願いし選挙講演会に出てもらうことにしたのだ。師匠を羽田空港へ見送りにいき、何度も「宜しくお願いします」と頭を下げた。そのかえあったのか、先輩は当選し、その後衆議院議員に鞍替えし、いまでは自民党の重鎮になっている。
二度目は、談志師匠が「落語立川流」を立ち上げて二年目頃(1985年)だったか、仕事で「大学対抗落語選手権」なるイベントをしかけ、そのゲストとして出演を打診していたのだが、その件で当時の本牧亭の楽屋でお会いし、立川流への入会を聞いてみた。立川流は本来の弟子であるAコースとビートたけしや高田文夫などがなっているBコース、そして一般のCコース。このCコースへお願いすると、いとも簡単に「いいよ」と快諾してくれた。「落語界のことは承知しているようだから、自分で好きな名前考えな」などと言ってくれた。しかし、ゲスト出演の依頼はこちらの方からお断りする事情ができ、快諾してくれたCコースの弟子入りの話もそのまま絶ち切れとなってしまった。
こうして談志師匠が亡くなった今、自分にとって「立川談志」はと考えると、自分にとってなんと身近な存在であったのだ、とその繋がり、縁を感じるのだ。
亡くしてみて、あわてて「巨星・立川談志」を追っかけなくてはと思っても、もう遅い。出会って40数年、追悼の意味を込めて師匠のDVDかCDを手に入れ、在りし日の「立川談志」をじっくり堪能してみたいと思っている。
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