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■長崎通信:その1 ほんの少しの背伸びを(1986年7月29日)
アメリカの漫画にこんなのがあった。銀行強盗を捕えた警官が言う。「この前、お前はこそ泥で捕ったな。どうしてこんなことをやったんだ」男は胸を張って答える。「向上心でさぁ」 このような向上心はいただけないが、やはり指導者は常に向上心を持つ必要がある。開祖自らの手で、支部長の任命を受けた感激を私たちはいつも思い起さねばならぬ。その時私たちの誰もが思ったはずだ。「よし。やろう。開祖の開かれた道の発展のために。少林寺拳法を通した金剛禅運動普及のために」 この決意こそが向上心の原動力であり、初心であったはずである。しかし、ふり返って現実を見る時、果して何人がその努力をしているだろう。いや、これは他人に言うべきではない。自分に問いかける言葉である。
開祖の生の言葉に奮い立った年代はだんだん少なくなっていく。それ故にこそ、我々はその遺教を後輩に伝える使命をもつのだ。そのために何をすべきか。それは各自がほんの少しだけ、背伸びすることだと思う。もう、ここでいいや、と安住する前に、もう一歩踏み出す姿勢をとることである。
昔の忍者は成長の早い麻の種子を蒔き、毎日その上を跳んで跳躍力を鍛えたという。日常の繰り返しが進歩につながる例であろう。蟹は甲羅に似せて穴をほる。しかし、私たちは成長分を見込んでほんの少し大きな穴を掘る努力をしたい。
5月から私は長崎大学でコ−チを始めた。自分のエネルギ−が学生たちにどれだけ影響を与えられるか、とにかく実力以上に背伸びしてやっていきたいと考えている。
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■長崎通信:その2 一流の拳、二流の拳(1986年8月29日)
あらはん8月号の編集後記を読んで考えた。こう書かれている。『演武主体の大会になって久しい。今の演武も、もっと個性的であってもいいのではないか。減点主義の採点法優秀組を表彰する制度が画一化を促しているように思う。いままさに少林寺拳法における演武とは何なのか、本質に迫ってとらえかえすべきではないだろうか。ある人の発言が妙に記憶に残っている。(拳法の腕は二流だけど、ケンカは一流ぞ)今の少林寺では異端であろう』
結論からいわしてもらえば、ケンカが一流であればいいという乱捕り主体の演武への郷愁としか思えない。そして、それを本質的なものとして育てたいという提言につながっていく。無署名ではあるが、これは編集責任者の責任記事とみる。
拳法の腕が一流で、そしてケンカが強いのはいい。しかし『拳法の腕が二流でケンカは一流』という言葉を、開祖ならどう受けとめられるだろうか。昔の少林寺でも、これは異端だったはずである。
確かに、武道とは殺すか、殺されるかの勝負だ。武道に反則はない。柔道がスポ−ツ化していなかったら、世界の頂点を極めた山下泰裕は遠藤の蟹ばさみで足を折られた時、その人生を終えていたはずだ。
教範にもあるように、日本の国民的英雄とされている宮本武蔵がなぜ大名にも天下人にもなれなかったのか。それは、彼が勝つためには手段を選ばない真の武道家だったからだ。
何度もいうようだが武道には反則がない。勝てばいいのである。しかし、日本には武士道というものがあった。戦国時代ならいざしらず、平和な時代ではその精神が武士を規範する道徳律となっていた。常に正々堂々とあれ。約束をまもれ。卑怯者といわれる位なら腹を切って死ね。それが武士道を支えた精神であった。だから勝つことしか念頭にない武蔵は、強さを認められながらも武士社会から疎外された。彼は28歳で勝負を捨てた。死にたくなかったからである。28歳で彼の人生は終わった。その後、彼は五輪の書を書き、絵画に悟りを求めた。しかし、私には、それが勝負の世界から逃れて、生きのびている後ろめたさへの弁解としか思えない。
幕末三剣士の一人といわれた大石進(筑後・梁川藩)という武士は剣術が下手だった。道場でみんなにバカにされる。彼は自宅にとじこもって天井からボ−ルをぶらさげ、三年間それを突く練習だけをした。三年後、彼は突きだけでその名を天下に高めた。
乱捕りで勝ちたければ、得意技一つ覚えれば良い。たとえば、どんな体勢からでもきめわれる流水蹴りをマスタ−すれば良い。相手の仕掛けを待ち、それを交わして一発蹴りこめば、あなたは乱捕りの王者になれるだろう。必殺技を覚えれば勝負に勝てるのである。 それなら、なぜ少林寺に六百数十種の技があるのか。我々は、もう一度教範をひもとく必要がある。少林寺拳法は目的ではない。手段なのだ。何年もかからなければ覚えられない技を教え、その期間を利用して人間教育をするのだ、と開祖は説かれている。少林寺の技を知らない大学拳法部の乱捕り要員の存在について開祖は何度も言及されているではないか。私は決して乱捕り否定論者ではない。武としての乱捕りの必要性は誰よりも痛感している。しかし拳を一人歩きさせてはいけない。少林寺の求めるものは拳禅一如なのであり、拳法の技が一流であることが強さへ結びつく、その練習の模索こそが肝要なのである。
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■長崎通信:その3 アヤカに想う(1987年2月1日)
奇抜なタイトルをみると、何だろうか?と関心がわく。CMの一手法である。『アヤカに想う』ちょっといろっぽいタイトルだな、じゃ読んでみるか、というようにうまくいけばいいのだが……。
アヤカとは開祖が法話の中でいわれた言葉である。つまり、アもヤもカも、きちんと書かなければ同じような形にくずれてしまう。
例
字は文章を作るための記号であり、従ってちゃんと読めない字で文章を書けば、当然それは読むにたえないものになり、自分の真意が相手に伝わらなくなってしまう。また、文は人なり、といわれるように悪文を書いて尊敬されることは絶対にあり得ない。
開祖はアヤカという字を例にとって基本の尊さを教えられたのである。これは決して字だけの問題ではない。
拳法において、アヤカに相当するものは基本法形であり、これをマスタ−することが修行の第一歩である。
最近、「あらはん」誌上で乱捕りの際フォ−ムが乱れるのは当然という意見を読んで情なく思った。開祖のいわれたアヤカの何たるかが全く理解されていないからである。現に一流拳士の乱捕りには激しい動きがあってもフォ−ムの乱れは感じられない。
フォ−ムの乱れは未熟さのあらわれなのである。文章でいえばアジ演説調の過激な表現をいくら並べても決して人の心を捕えることができないのに似ている。沈黙は金とさえいうではないか。開祖は、拳士の心構えとして『必勝』ではなく『絶対不敗の体勢をとること』と教えられた。フォ−ムの乱れは、相手を倒そうという『必勝』へのこだわりから生ずるのである。
『アヤカに想う』と題したのはアヤカの説明をされた開祖への、遠く熱い想いからに他ならない。
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■長崎通信:その4 男は黙って………(1987年3月14日)
私は『古い』のかもしれぬ。というよりナウくない、イマくないというべきか。2月8日に行なわれた東京国際マラソンで、絶対の優勝候補といわれていた中山選手が左足アキレス腱痛のために(?)2位に終わった後の談話を聞いて腹が立ったからである。ふきげんな顔で「ジョギングもできないのに走れる訳がないでしょう!」また「谷口君だって2時間10分で走るんですよ」と言訳しながら優勝者のタイムにケチをつけるようにしゃべる中山。自分だけがスタ−だと錯覚しているチンピラの言葉ではないか。負けた言訳するぐらいなら走るな。にっこり笑って勝者を祝福できる度量をもつのがスポ−ツマンではないか。
しかも、走っている最中、先頭に出たり、下がったり、キョロキョロ周りを見回したり、ドリンクの容器を高々と投げすてたり、あげくの果てにミスコ−スしたり、余裕があるといえば聞こえがいいが、私には「おれはスタ−だから何をしても許される」というおごりとしか思えなかった。王者の貫祿には程遠い鼻もちならぬごうまんな態度。少しぐらい人より早く走れるから、人間として立派とは言えないのである。
かって開祖はいわれた。「拳法が続けられないと言訳する奴がいる。何事も、やるか、やらないかのどちらしかないのだ。やらないことに理屈をつけるな。弁解はするな。仕事が忙しいから拳法ができないのならきっぱりやめなさい。やるなら黙ってやりなさい」男は黙って………これが男の美学なのだ。
また開祖はこうも言われた。「拳法しかできない拳法バカにはなるな。ケンカが強くても誰も尊敬してはくれない。あらゆる分野の人と対等に話せる幅広い社会常識を身につけなさい。少林寺にスタ−はいらない。そして雑魚(ざこ)は尚いらない」
開祖が説かれた人造りの原点はここにある。
「本当の強さとは何か」を説かれた開祖の教えをどこ吹く風、おれは乱捕りが強い、と自慢する拳士を私は何人か知っている。拳士なら中山のような雑魚にならないでくれ。イマくない私はそう思う。
教範にはこう示されている。
「もし武道というものが単に試合に勝つことを目的として習練され、強者をつくる目的でのみ修行されるならばこれほど有害で無益なものはないであろう。(中略)多くの実例が示すように傲慢で殺伐な、我の強い鼻もちならぬ人間を育てているだけである」
上記の「武道」という言葉を「マラソン」に置き換え中山に煎じて飲ませてやりたい。
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■長崎通信:その5 心猛くも……(1987年5月1日)
少林寺拳士愛唱歌集の中に「蒙古放浪歌」がある。古参拳士はいざ知らず、若い拳士の中には、なぜ、この歌が少林寺に?といぶかる人がいるのではなかろうか。
心猛くも鬼神ならぬ / 人と生まれて情はあれど
母を見捨てて波越えて行く / 友よ兄等といつまた逢わん
開祖はあまり歌うことがお好きではなかった。その開祖がこの歌を聞いて涙ぐまれたことから採録されたものと聞く。
多感な18歳の開祖が母を亡くした悲しみを振り払い、新天地を求めて昭和3年、2度目の渡満をされた、その時の切ないまでの心境がこの歌詞の中に込められている。
飛行機でチョイと外国へ飛ぶ現代っ子の新人類には理解できない心境ではあるだろうがしかし、この歌の2番「海の彼方の蒙古の砂漠/男多恨の身の捨てどころ」の“蒙古の砂漠”という部分が“アマゾン”とか“ブラジル”とかに置き換えられて、世界各地で歌われていることを思えば、男のロマンをかきたてる歌であることは間違いない。(南米から帰った友人によればこの歌は拓殖大学の第二校歌とさえ言われているとか)
開祖は常に「原点に帰れ」といわれていた。
少林寺の原点は人造りにある。拳の技はその人集めの手段なのだ、と声を大にして言われた。その「手段」が一人歩きして、単なる「物理的な強さ」の追求が目的となることをいましめられた。「単なる強さ」の愚かしさをくり返し説かれた。
人、人、人、すべては人の質にある。その人造りの道において「友よ、兄等といつまた逢わん」と言える友を持つことの出来る尊さを、開祖はこの歌に託されたような気がしてならない。
「暮しの手帖」という雑誌がある。ずっと以前亡くなった花森安治さんが創った雑誌である。広告をとれば広告主への遠慮や気兼ねができよう。本当に良いものを追求するために、だから広告はとらない。試供品の提供もお断りである。市販品を普通に購入して、冷静な科学の眼で判断し、その結果を読者に示す。暮しの手帖社には、いまでも、花森さんの机が、使いかけの鉛筆もそのままに置かれ、花が飾られているという。
私は、ここに花森さんの切り拓いた原点を見る。
原点を離れた時、組織は乱れ、運動はその方向を見失う。少林寺拳法も、これを他山の石としたい。
生きていれば、私でも時には落ちこむこともある。その時“心猛くも……”と口ずさむ。
開祖の面影が脳裏をよぎる。
越えるべき山、渡るべき河のいかに多きか。まだまだ拳法はやめられない。
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■長崎通信:その6 青春という名の幻想(1987年8月30日)
昇格考試に乱捕りが加えられた。「幼稚園児から80歳の老人までが修行できる」と開祖がいわれた少林寺。幼稚園児や80歳の老人が若者相手に乱捕りができますか。これは明らかに弱者を昇格考試から排除する手段としか思えない。「弱い拳士は不要」という思想である。確かに武道として一面の真理はあっても、私には開祖の希われた方向に進んでいないことだと思う。
青春という言葉である。“みずみずしい”“みなぎる”“はつらつとした”“若々しい”“爆発する”というようなイメ−ジをもつ。
かなり年老いてきた私はこれまで精神面の青春こそ大事だと考えてきた。5月21日朝日新聞にのった三浦朱門さんの「老人も作られる存在」というエッセイの中で「いずれにせよ人生の絶頂は青春で、この時期の夢のような日々がある、というのは幻想でしかない。
(中略)人生はどの年齢層にとっても美しい惑いに満ちているのである」という部分に我が意を得た。
かって拳法草創期に、もっぱら「第三種お神楽」として実戦を修練の場とされた開祖が究極的に少林寺拳法を宗門の行と定義づけられたのは開祖の肉体が衰えられたからでは断じてない。拳と禅の修行を通して真の人間の在るべき姿を追求されたからである。
心臓を病まれ、その苦しさに苛まれ、迫りくる死の影を垣間みながら、拳法を主行とする金剛禅を説かれた開祖は、まさに青春を獅子吼された。
鍛えた拳はどこへ行く?若さに溺れ突き蹴りに強弱にこだわることは単なる若者のおごりであり、本質を見誤まる幻想でしかない。80歳の老人が青春を燃焼させ得る拳法こそ開祖の希われた宗門の行なのである。
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■長崎通信:その7 星霜移り、人は去り…(1987年11月21日)
サラリ−マン生活を重ねていると、そこには常に宿命とでもいうべき別れがある。
いわく転勤、いわく定年。鬼のように怖かった上司が、ある日、突然急に優しくなると、「ああこの人は定年間近かなんだ」と実感したりする。サヨナラダケガ人生ダ、と于武陵の詩を訳したのは井伏鱒二さんだが、確かに人生は、出会いと別れだけといえるのかもしれぬ。
昭和48年、私は気象庁支部長として開祖の手から直に任命状をいただいた。感激であった。命をかけて……と当時の私は思った。それほど、宗道臣先生との出会いは強烈だった。戦争によってすべての価値観を信じきれなくなっていた私にとって、これはまさに革命であった。拳の魅力もさることながら、禅のすばらしさ、釈尊の遺教を現代に蘇らせ、それを幸福運動に昇華された開祖の意気に感じたからである。
それはさておき、予算関係の仕事に従事していた私にとって、支部の運営は時間的な制約もあり、かなりきついものになっていた。仕事と拳法の間で、人に言えない葛藤に悩んだ事もあった。しかし、私の脳裏には、常に開祖の言葉が聞こえていた。「人生は、やる、か、やらないか、の二者択一だ。やれないのならやめなさい」 先輩からは、「拳法ばかりやっていると損するぞ。いいかげんにしろよ」と何度も忠告された。確かにそれは一理ある言葉であった。公務員の不文律として、転勤することが出世の条件となるのである。エリ−トでないだけに出世といってもたかがしれており、とにかく転勤のないことを願い、「あいつは拳法気違いだから仕方がない」といわれるのを幸いとして、支部を続けることができた。御蔭で私の周りには常に若い拳士が集まっていた。
職場に、しかも職務に関係のない余計な事を持ち込んでくる訳だから、上司がいい顔をする筈がない。文句をいわれない為には完ぺきな仕事をするしかない。その頃は、毎年東京で全国大会が開催され、なぜかいつも実行委員を拝命してほとんど半年は準備の為に拘束され、連絡電話はじゃんじゃんかかってくるわ、打合わせや関係者への挨拶に外出しなければいけないわ、本当のところ退職を勧告されることを覚悟したこともあった。私を支えてくれたのは支部拳士の暖かい支援だった。しかし、その頃定年退職間際の、我々からみれば雲の上の高級官僚である上司から、「安在君、少林寺はいいね。人が集まるという事はすばらしい事だ。大変だろうが続けなさい」と言われたことがある。それも三人の人から同じ時期に、同じことを言われたのである。
私には判った。これまでは職務上、部下がついてきた。無理をいっても言う事を聞いてくれた。ところが退職すればただの人、ころりと掌を返される、という訳でもないだろうが、仕事を離れた人間関係の無常を痛切に感じられたからに違いない。「ありがとうございます。がんばります」私はただ合掌し、頭をさげた。
私は思う。何事も誠意をつくして、少なくとも十年がんばれば、必ず評価は良い方向に変わる。ただし、拳の強さを誇ってはいけない。開祖がいつもいわれたように拳しかできない拳法バカになってはいけないのである。職場において、拳の強さを誇示する事は自殺行為でしかない。なぜならば、職場において拳の強さで解決できるものは何一つないからである。むしろ危険人物扱いされてしまうと言っても過言ではない。
昨年4月、さすがに転勤を断れず、私は長崎にきた。こちらに来てもう一度少林寺拳法を第三者の目でみつめる時間を得て、開祖の偉大さを再認識する事ができた。少林寺拳法を単なる武道に堕してはいけない。禅あっての少林寺。しかも、禅の道は、深く、厳しい。教学を忘れた少林寺は、もう少林寺ではないのである。
この頃「ああ、玉杯に花うけて」の何番かを、ふと思い出す。
花咲き、花はうつろいて/露置き、露の干るがごと/星霜移り、人は去り 梶とる水夫(かこ)は変わるとも/わが乗る舟はとこしえに/理想の自治に進むなり
拳士の皆さん、『理想の自治』を『金剛禅の道』に置き換えて歌ってみて下さいませんか。
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■長崎通信:その8 真の強さについて(1987年を振り返って)(1988年1月15日)
横綱・双羽黒が廃業した。類まれな素質を持つと言われ、国技・大相撲の最高位を究めた横綱の話である。考えてみれば昭和62年は、スポ−ツ界・武道界にはいろいろな事件があった。
しかし、年末に起こったこの双羽黒の事件ほど、開祖の言われた真の強さについて考えさせられたものはない。付人脱走事件に引き続き、ほんの些細なチャンコの味付けがまずいといって若い衆をぶんなぐり、それを意見された事に怒って暴力を振るった事が発端という。ずいぶん次元の低い話だが、他山の石として考えてみたい。
15歳から北尾光司(双羽黒の本名)を育てながら、結局その程度にしか教育出来なかった立浪親方の責任と共に、ただ強ければ横綱に推挙してしまう横綱審議会や相撲協会の「心・技・体すべて他の範とするに足る」という推薦理由も、ただ空しいだけのものになってしまう。
このような事件について、開祖はとうの昔、教範の中で、こう喝破されている。
「……試合をさせることを目標に弟子を育てると、点数をかせぐことに専念しはじめ、 勝つためには手段を選ばぬような人柄が育ち、相手を打ち負かした時だけに喜びを感じ るという、自我意識の強い傲慢な人間を作ってしまうことである。
この事実は、拳闘や相撲やプロレスリングの世界を見れば明らかである。勝った瞬間 から天下唯一の大人物になったように振舞いながら、その実は次の挑戦者におびえる、 追われる者のむなしい生活が始まるのである。(中略)
人間がただ自分の強さを誇るために人に戦いを挑み、試合に勝って世人の拍手喝采を 得ようとする芸人のような根性をもっていては、協同生活を基調として共存共栄を理想 とする人間社会に必要な人として受け入れられる筈はない。
勝負師の人気は、ショウとして或いは賭けの対象としての人気であって、その人の人 格や徳に対する人望ではないと云うことを知らなければならない。このことは相撲や拳 闘の世界を見れば一番ハッキリしている。ただ強かったと云うだけの人達の末路を見る とよくわかることである」
新人類と呼ばれる現代っ子の甘えの構造が、核家族時代における物質的な豊かさに加速され、欲求不満への耐性を低下させており、親の保護から離れ、一人立ちして多様化・複雑化した社会に飛び出した時、これに適応出来なくなっているのである。耐える事が出来ないのは、まさに時流というか、社会全般の風潮なのであろう。
しかし、我々はこの北尾氏を笑ってばかりはいられない。この相撲バカと同じ拳法バカが、かなり多く存在するのを知っているからである。確かに人間の本能は強さにあこがれる。私自身、入門の動機はまさにそれであった。だが、有段者として開祖の教えを守らなければ拳士とはいえない。
教範にいわく、「真の武道と云うものは、武の本義に徹し、武道の本質を知り、敵に勝つよりも、先ず己れに克つことを修め、己れを知り、人を知って、人の霊止たる、我の我たる真諦をきわめ、人間は何のために此の世に生をうけているかを悟らなければならない」
この頃「鍛えた拳はどこへ行く?」という言葉をよく耳にする。開祖が聞かれたら何とおっしゃるだろう。少林寺を創設された時から、開祖ははっきりとそれをお示しになっているではないか!
我々は誓いをたてて入門した。人を倒し、人を殺す技術を修める道としてではなく、〔己れを修め、己れに克ち、人を生かして己れも生きる〕という済世利民の王道をあゆむ事を。そして、開祖はそれが真の強さである事を口を酸っぱくして説かれたではないか! 1988年を迎えるに当たり、我々はもう一度初心にかえって、真の強さについて考えようではないか。時々でもいい。教範をひらいて読もうではないか。
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■長崎通信:その9 ある道院長への書簡 すばらしい先達になろう──『先生の座』についての一考察──
(1988年2月20日)
昭和1988年1月9日正午、劇団「民芸」の俳優・宇野重吉さん(本名・寺尾信夫)が肺がんのため逝去されました。享年77歳。度重なる手術を乗り越え、点滴と酸素吸入をしながら舞台に立つことを唯一のリハビリとした末の壮絶な戦死でした。
NHKの村上慧チ−フプロデュ−サ−は、こう語っています。
「“先生”とお呼びすると、“僕は先生じゃない”と怒るんです。でも目は笑っていました。仕方なく“宇野さん”と呼んでいました」
このように舞台に立つことを最後まで楽しんだ宇野さん。拳法を「養行」として楽しみながら修行せよ、と教えられた開祖。私はそれぞれの道を究めた二人の生き方に共通するものを感じてなりません。そして、「先生」という言葉について考えてみたいのです。
お叱りを受けることを覚悟の上で私の本心を言えば、今の少林寺にはあまりにも「先生」が多すぎます。少林寺において「先生」は開祖・宗道臣以外におらずその他の方はすべて「先輩」でしかないと私は考えています。(但し、便法としての「先生」という言葉は使っています。たとえば学校の先生同士が呼び合うように)確かに先生と呼ばれるにふさわしい人格者は何人かおられます。
しかし、先生と呼ばれるに足る「拳と禅」とを完全とはいわないまでも、一応ある程度身につけた人が、我々の中に果して何人いるでしょうか?
一生精進してもなお果てのない道、それが本当の道だと思うからです。
私は思い出します。1971年2月、還暦を迎えられた開祖は、祝賀会の席上で、集まった全国の道院長・支部長に対して、各自が金剛禅の原点に立ち帰る必要がある、と呼び掛けられました。要点のみ申し上げれば「少林寺創設の動機は、敗戦を機として自信も誇りも失い、バラバラになった日本の社会にヨコのつながりを作りたい。いざという時、協力して行動できるような組織を作りたい。という事でこの運動が始まった。しかし組織が大きくなるにつれ、この出発点をいいかげんに考える人がでてくるようになった。これは、皆が反省しなければならない重大な問題である。理想社会を作る為に行動する団体である少林寺が、無気力、無関心、無責任のノンポリになり下がっては、もはや存在意義さえない」
本論から少し外れますが、堪忍して下さい。これが判らないと結論を理解して頂けないからです。
それでは、金剛禅の原点はどこにあるのでしょうか。
それは教範の第一章「少林寺建立の目的と金剛禅の成立」の中にすべてが言いつくされています。
その年の指導者講習会で、我々は金剛禅の原点を正しく理解する学習のためのポイントとして次の三点を教示されました。
1.近代日本史−特に昭和史(運動としての原点)
注.この学習がないと「あらはん12月号」編集後記の「原爆も反対だし、戦争も 反対だ。……私はもう戦争はしたくない。はっきりしときます。……という(開 祖の)言葉の裏には、一体どんな体験が隠されていたのだろうか」というまるで 部外者のように不勉強なドッキリ発言が出てきてしまう。
2.原始仏教の思想(思想としての原点)
3.武道論(宗門の行としての少林寺拳法の原点)
今日、私がお話したいのは、この中の2.思想としての原点である『原始仏教教団(釈尊教団)の在り方』のほんの一部についてです。
阿含経という教典の中で、釈尊は「善き友があり、善き仲間と共にあることは、聖なる道のすべてである」と説かれ、善き友、善き仲間−すなわち同志という存在の価値を強くアッピ−ルされていますが、このように、仏教にはひれ伏して救済を願うアラ−のような神の存在も無く、キリストのように神と人との仲立ちをする者も無い。
そこには、唯一本の道があり、その道をすべての同志が、強い連帯感のもとに同じ方向目指して歩いて行く。従って、釈尊自身でさえ導師−導く人でありながら、やはり同じ道を行じる仲間の一人なのでもあります。
先頭に立たたれた釈尊の導きに従い、その垂範に励まされ、ひたすら自己確立の道を行く。開祖が願われたのは、まさにこの境地であり、開祖を先頭にした我々金剛禅教団が、身分や、地位や、職業を超えた幸福運動として、ヨコの人間関係に結ばれた真の同志的連帯をもって団結した時、拝み合い、援け合いの、平和で豊かな理想境が浮かんでくるのです。
脱線ついでに言いますと、開祖は、「この理想境を一言で言えば、正直者がバカをみない社会を作ることだ」とおっしゃっています。
このように、たとえ道院長といえども同志の一人に過ぎず、先生風をふかすことなどもってのほか、と言うことになりましょう。
開祖が常日頃「道院長たる者は、ちゃんとした職業を持ちなさい。無職は絶対いかん」と口癖のように言われていたのは、拳法しか出来ない拳法バカが先生になるのではなく、優秀な社会人として周囲の尊敬を得られる人でなければ道院長の資格なし、と言葉をかえて諭されたものです。
船頭多くして舟山に登る、という諺があるように、数は必ずしも力になりません。場合によっては、危険な方向へそれる傾向さえ示します。たとえば民主主義は衆愚主義になったりするように。
金剛禅集団に今必要なものは、門下生を先導して険しい山道を越えられる先達としての力を持った道院長なのです。もし、自分が足を踏み外せば後続の仲間も遭難してしまう、そんな運命共同体のリ−ダ−になれる先達なのです。
門下生に背中を見せましょう。先頭に立って進む男の背中を! ジャン・ギャバンの演じたペペル・モコのように。(注)
先生風を吹かさなくても、あなたの周りには、あなたを慕う仲間がどんどん集まってくるのです。ちなみに、宇野さんの最後の舞台「馬鹿一の夢」の終わりの科白は「僕は石にしがみついても、この道を歩いて行きます」でした。
最後に一言、あなたにお聞きたいのです。年とって身体がきかなくなった時「老師」として尊敬される力を、今のあなたは持っておられるでしょうか?
(注:映画「望郷」の中で、警察に指名手配されている主人公ペペル・モコが、愛する女 に会うために、逮捕されるのを覚悟で隠れ家を出て、坂道を下って行く。カメラはただ その後ろ姿を追っていくだけ。「背中で演技する」といわれた有名なシ−ン)
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■長崎通信:その10 ふたたび「真の強さ」について(1988年3月26日)
強さとは一体何であろうか、と再び私は考える。1月23日(日本時間)アトランティックシティ−で行われたプロボクシング三団体統一(WBA、WBC、IBF)世界ヘビ−級タイトルマッチ12回戦で、マイク・タイソン(米国・21歳)がラリ−・ホ−ムズ(米国・38歳)を4RでKOした。
私も真夜中2時からの放送を見たが、さすがヘビ−級のパンチは物凄く、グチャッとにぶい音と共に老雄ホ−ムズはキャンバスに崩れ落ち再び立てなかった。
一般にプロボクシングでは2階級の差があれば、軽量級は絶対に勝てないと言われている。無論、同じ素質を持つ者が同じ練習量をこなしての話であるが、例えば、ダンプカ−と軽自動車の衝突を考えれば良い。また、交通事故の目撃者によれば、自動車に軽く人が接触したと思った瞬間、その人は10メ−トルほど宙を飛んだ、という。このように質量の違いは、いくら訓練しても絶対に越えられぬ壁となる訳である。
なぜ私がこの小文を書こうとするのか。それは、最近少林寺拳法こそ最高の格闘技であるという幻想を持つ拳士が増えていると思われるからである。言い方が悪ければ「必勝しか考えない人」或いは「拳法の技の追求のみを目的とする人」と表現を代えてもよい。
開祖は、少林寺において「必勝」は不要であり「不敗の態勢の確立」こそが肝要であると説かれ、拳技をあくまで宗門の行の手段として位置づけられらた。この辺りを理解出来ないえせ拳士が、最近あまりに多く見受けられるからである。いわゆる武道とは、つまるところ殺すか、殺されるかの真剣勝負に帰する。従って、体力或いは技の優劣を競うものでもなく、また体重別の制限がある訳でもない。さらに相手がどんな人間であるか、こちらに選択する権利さえないのである。例えばタイソンと殺し合いを前提として対戦することを考えて見給え。或いは250kgの体重を持つ小錦の張り手を食らったとしたら……あなたは相手の攻撃を封じ、徒手空拳で相手を倒せる自信がありますか?「必勝」を前提とすれば、それはおそらく不可能であろう。とにかく質量の違いはどうしようもない。もし、少林寺がタイソンに勝てる拳士を養成する武道団体を標榜するなら体重100kg以上の人間しか入門できないことになろう。
かって、開祖は「少林寺拳法奥義」の中でこう説かれた。
「身を護ることだけが目的なら、なにも長い年月をかけて突いたり蹴ったりすることに 血道を上げる必要はない。ピストルかライフル銃一丁で十分である。……ただ倒せばよ いのなら、素手よりは武器を用いたほうが、はるかに手っとりばやいのは、今さらいう までもないし、同じ武器にしても、刀や槍よりは、相手の攻撃のまるで届かないところ から相手を仕留めることのできる飛び道具のほうが効率がよいのは決まっている。…… 核弾頭つきミサイルが通常兵器として用意され、わずか何分の一グラムかの細菌で数千 万の人間を殺戮できるような現代であってみれば、ただ物理的な力や技だけを誇示して、人より強いの弱いのと力んでみせるのは、むしろこっけいであるとさえいえよう。
だから、私は仮に少林寺拳法を護身の技術に限定した場合でも、最低限度、素手でも戦える、自分の身はなんとか護れるという自信を養えれば、それで十分だと考えている。
……ほんとうの強さというものは、単なる物理的な力や小手先の技にあるのではない。 少林寺拳法の技は、護身の技としてもきわめて効果の大きいものであるが、前述したと おり、徒手格闘術の修得自体を目的とするなら、これほど無意味なことはない。少林寺 拳法の目的とするものは、なによりもまず、うぬぼれでない自信を得ることにある。そ して、この自信こそがほんとうの強さの正体なのである。いざという時には、自分自身 を寄りどころにできるゆるぎない自信を基盤として、はじめて勇気も生まれ、正義感に あふれた行動力もわいてくるものなのである」
前にも書いたが、乱捕りの王者になりたければ、必殺技ひとつ持てばいい。例えば、どんな態勢からでもくりだせる「流水蹴り」をマスタ−すれば、一対一の勝負なら大体勝てる。金的を蹴ればタイソンだって倒せるかもしれない。その代わり、あなたは少林寺拳士の名を返上し給え。
タイソン−ホ−ムズ戦の翌日、「日刊スポ−ツ」新聞はこんな記事を伝えている。
「試合前、リング上にヘビ−級で一時代を築いたモハメド・アリが挨拶のため、アラシ のような“アリ・コ−ル”に迎えられて登場した。だが、黒いサングラスをかけ、タキ シ−ド姿のアリの足取りは、正視するのが気の毒なほどおぼつかなかった。両選手を激 励する握手にも力がなく、かって“蝶のように舞い、蜂のように刺す”と言われた偉大 なチャンピオンのかけらもなかった。黒いサングラスも、うつろな目をカムフラ−ジュ するためだった。時代の流れは残酷すぎるほど残酷だ。(中略)腰に一本、肩から二本 のベルトをたらしたタイソンは、誇らしげに“グレ−ト(偉大だ)”と叫んだ。それは アリがかって取ったポ−ズと同じだった。歴史は流れ、繰り返される。だが、時代を止 め、逆流させることはできないのだ。三人のヒ−ロ−たちは思い思いの感慨を胸に会場 から去っていった」 恐らく、アリは度重なる闘いの後遺症で、いわゆるパンチ・ドランカ−になったのだろう。ただ強さのみを追求することの栄光と挫折。私はこの記事に、その象徴をみる思いがした。 |