安在先生の福島通信

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福島通信:その81                2007.3.19

          道衣寸考

安 在 孝 夫

  〇捨てがたき道衣繕う二日はや
  〇初稽古締めこむ帯のささくれて
 大先輩・田村道明先生の近作句です。この二つの句には、かつて私たちが開祖から真の武道として学んだ心意気が結晶しています。まず一句目、正月二日、鏡開きに備えてほころび始めた道衣を繕う拳士の姿。そのほころびに関わった仲間たちの面影を偲びながら、さあ、今年もやるぞ、という意気込みが活写されています。二句目は、初稽古に締めこむ帯のささくれが、少林寺拳法に命を燃やした自分史を垣間見せることへの心象風景。その中には開祖の姿も彷彿する、ともに素晴らしい句だと感じ入りました。 「かつて」と書いたのは、こんな風景がこれからは見られなくなりそうだからです。
 来年から胸章が刺繍でない道衣は使用できず、しかも、見苦しい道衣は着用不可になります。夏なら毎日でも洗わねばならぬ道衣であれば、刺繍の胸章は1年経てば洗濯で擦り切れ、見苦しく色が褪せてくるはず。これは、道衣を自分で洗濯した経験のある人にしか分かりません。現在、私は10年以前に購入した4着の道衣を着回ししています。擦り切れた襟や袖口に当て布をして見苦しくないようにしていればこそ、上記の句が心に沁みてくるのです。繕った道衣は、決して見苦しくはありません。
 しかし、擦り切れた刺繍は見苦しく、道衣を買い換えねばならないでしょう。まるで、胸章のために道衣を更新せよということになります。日本にも貧乏な拳士もいますし、これを世界中の拳士に求めるならば、道衣1着の値段が後進国においては月収乃至年収に匹敵し、到底実現は不可能なことです。開祖ならそんなことをお許しになったでしょうか。
 また、胸章についていえば、開祖が、なぜ、修行の度合いを示すために卍の色を決められたのか。それは、努力目標として存在したからです。修行といっても、所詮人間のやること、努力目標があればこそ、凡人は努力します。自分自身を考えてみても、緑から黒へ、黒から赤へ、赤から黄色へ、黄色になったら銀縁、銀縁から金縁、と進化していく修行の過程が、どんなに励みになったことか。黒卍になれば、赤卍へ向上しようとする意欲が自分を支えてくれました。差別はいけないけれど、区別はあって当然です。
 このことは肩章についても同様で、道場では遠くから見たら帯の色で有段者か級拳士の区別しかつきません。誰が助教で、誰が助手かも分かりません。修行者だから、同じで良いということでしょうが、人情の機微を考えると疑問もあり、私的には、布教の最前線に立つ道院長は金色にすべきだと考えています。 このような組織決定は、何か組織以外の考え方、つまり道衣を着たことのない、あるいは道衣を洗濯したり繕ったことのない人により、しかも拙速に実施されているような気がしてなりません。道衣問題については、多くの拳士が意見を持っていますが、本部にはその意見を受け付ける部所がなく、また、不満分子と見られることを恐れて発言しない風潮も見逃せません。誰もが黙ってしまうことこそ、私は恐れます。
 思い出の沁み込んだ道衣を繕いながら、明日への希望に夢をふくらませる拳士像こそ、理想なのだと、初出の句を鑑賞しながら思いました。