福島通信1〜13 (バックナンバー集)

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■福島通信:その1 悪魔の辞典(5年7月14日)

 「悪魔の辞典」といえばアメリカの短編小説家アンブロ−ズ・ビアズ。然るべき単語に
風刺と機知を特色とした定義を与え、アイロニカルな社会批評を行ったことで有名である。
六月二十八日の朝日新聞に、大阪府立四条畷高校で、読解中心の国語教育から脱却し思考力や表現力を育てるため「文明批評」をテ−マに、自分たちの身の周りの社会の現状をブラックユ−モアで綴る試みがされたという記事があった。名付けて「悪魔の辞典」。
 そこには生徒たちの若いエネルギ−と新鮮な感覚が躍動していて面白かったが、読み進むうちにガンと頭を殴られた思いのする部分があった。いわく
 【原子力発電所】増え過ぎた人類の数を調整するために人間が作った建物。
 【人    間】地球破壊の秘密兵器。
 私が最近、詩のテ−マにしている環境破壊・汚染への問題提起。中でも人類が処理できない放射性廃棄物の恐ろしさについては、いくらアッピ−ルしても足りないのだが「人類の敵は人類」というその危惧を、この高校生たちは的確に言葉遊びの中に捕らえていたのだ!
 原発事故についてはチェルノブイリ級の危険性が世界的規模で常に存在するし、公表されていない苛酷事故(シビア・アクシデント)がかなりあるとも言われている。また核実験もさることながら、最近問題化したロシアによる解体原潜の原子炉や放射性廃棄物の日本海への投棄など、言語道断ともいえる各国のエゴが地球環境の悪化に拍車をかけているのも事実である。
 高校生の作った「悪魔の辞典」。その感性とセンスの面白さに拍手しながらも、なんとなく遣る瀬なく、ふと、芭蕉の句を想ったりした。
   面白うてやがて悲しき鵜舟かな
 人類の幸せの為に「科学」を正しく方向づけるものは、真の「宗教心」であるとし、慈悲を説く釈尊の教えを少林寺思想の原点に求められた開祖。敗戦時、外地における弱肉強食の地獄絵をつぶさに体験された開祖が「すべては人の質にある」と痛感され、青少年育成に命を賭けられたことを私は思い出す。放射性廃棄物による被害は目にみえず、また地球規模であるため他人事のように錯覚してしまう。その結果を目に当たりにした時は、もう滅亡の時なのだ。
 この高校生たちの心情に思いを致し、少林寺を通して未来への夢と希望をもてる社会をプレゼントしたいものである。

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■福島通信:その2 拳の三訓「守破離」について(5年8月5日)

 ズバリという言葉がある。〈そのものズバリ〉とか〈ズバリと斬る〉とか使う。浅学非才の身、最近ある本を読んでこの「ズバリ」は「守破離」に由来するものだと知った。
 「守破離」といえば拳の三訓。教範によれば、道を学ぶ者のための三つの教えであり、上達の要素である。武術に限らず、すべて技芸には「格」というものがあり、それに至るためには、まず正しく師の教えに従い、師の形を学び、我流を避ける。これが「守」であり、それに自分の特性を加味することが「破」であり、さらにその積み上げを基礎として自由な創造の世界、自在の境地に入ることが「離」である。開祖はこれを書道の楷書・行
書・草書を例にとって判り易く説明されたが、拳の道は奥深く、ズバリいえば私など「破」
にさえも程遠く、まして「離」には到底達せそうにない。生涯修行が必要な所以である。 開祖が常々「君達は単なる武術者としての拳士ではなく、あらゆる階層の人とどんなテ−マでも対等に話せるだけの勉強をしなさい。そうして得られた信用こそが人間の価値なのだ。いくら拳法何段を誇ってみても、強いだけでは敬遠されこそすれ尊敬されることはない」といわれた事を思い起こす。拳の三訓は精神の領域にまでズバリと及ぶのである。 手近な辞書をひけば「【ずばり】(副)・小気味よく切り落とすさま。・急所や核心を勢いよく正確に突くさま。」とある。開祖はまさにズバリと拳士の生きざまを明示されたのである。
 最近、「少林寺幹部」と名乗る身元不明の誰かから、開祖と少林寺を誹謗する怪文書が送られてきた。恐らく破門されたバカモノの仕業であろうが、六年前支部長をやめた私にまで送ってくるのだから恐れ入る。せっかく少林寺に入門し、人間確立の法縁に恵まれながら自ら地獄道に踏み込む愚かさ。まさに畜生……といったら畜生から「そんな最低の奴といっしょにしないでくれ」と叱られそうだ。釈尊の原始仏教に思想の原点を求められた開祖の宏遠な心や理想を理解できず、ただ武階のみ上がっていった彼等には「守」さえも遠いものだったに違いない。ズバリいえば最初から「破」しかも理非善悪もわきまえぬ破れかぶれの「破」であり、迷走する「離」であろう。荒野をさまよう哀れな魂、とでもいおうか。
 とにかく「ズバリ」という言葉からいろいろ考えさせられてしまった。
 私事で恐縮であるが、福島に移住して早四ヶ月経った。やはり拳法から離れ難く、福島中央道院で少年部を担当させていただいている。子どもといっしょにも一度「守」から出発したいと考えながら、この充実感を一言でいえば……ズバリ「幸せ」なのである。

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■福島通信:その3 「大きさ・遠さ」について(5年8月23日)

 殺虫剤や掃除機のコマ−シャルによれば、家の中にはダニがウヨウヨうごめいているらしい。確かにチリ、ホコリ、花粉などと共にアレルギ−発作を起こす原因になることもあろうが、ダニがいるのは別に異状ではなくあまり神経質になり過ぎる必要はない、という医者もいる。
 ところで肉眼で見えないダニの身体構造は、一体どうなっているんだろう。頭があり、目があり、手足には関節があり、交尾もし、卵を産み、それが孵化してさらに小さな子どもが生まれ……となると、それは顕微鏡でなければ見えないミクロの世界である。人間の精子と卵子の結合でさえ神秘的なのに、しぶとく生きるその姿を想像しながら、私などは単純に「ダニはエラい」と思ってしまう。ところが渋澤龍彦さんの「胡桃の中の世界」という一文にこの疑問を解くカギが紹介されていた。
 ジャン・コクト−はいう。「ある物体を大きいとか小さいとかいうのは間違いで近いとか遠いというべきだ。たとえば、目に見えない微生物は小さいのではなく、目に見える星より遠いのだ」と。『距離の新しい概念が確立されれば、終わりのある無限小という愚かな概念はなくなるだろうし、大小の概念もその意味を失って極大とか極小とかいった幻想の壁にぶつかることもなくなるだろう』(『無名の男の日記』)つまり可視性を距離の関数と考えることによって大小を無くそうとコクト−はいうのだ。
 これを私流に翻訳すれば次ぎのようになる。まず数百名を乗せたジャンボ旅客機を想像してほしい。飛び立ったジャンボ機はどんどん小さくなっていく。ゴマ粒ほどになり、ダニの大きさになった時(当然肉眼では見えないが)乗客はダニの体内にある精子や卵子の大きさに等しくなる。コクト−流に言えば遠いのだ。逆にダニをジャンボ機の大きさまで近くしたら……考えるだけでゾッとしてしまうが……なんとなく判るように思うのは私だけだろうか。
 巨視と微視、大きさと遠さ。視点を変えていろいろ考えて見るべき問題は私たちの周囲にたくさんあると思う。たとえば私は現在、福島中央道院で少年部の指導にあたっているが、初めての経験なのでとまどうことが多い。試行錯誤の連続である。まず肩書きが物をいわない。先生ヅラをしてみても、なかなかいうことを受け入れてくれない。向こうから見ればいいかげんくたびれかけた単なるオッサンであろう。ここにはホンネの世界しかないのだ。私の「六段准範士」は、子どもたちにとって、まさに虚像である。彼方に飛び去ってダニより遠くなったジャンボ機なのである。これまで実業団支部長、大学の監督・コ−チをまがりなりにも勤めてこられたのも、今思えば自分の実力ではなく「先生」という虚像でごまかしてきたような気がして冷や汗が出る。
 子どもは計りしれない可能性の種子である。その可能性をいかに有効に引き出すかが指導者の責任であろう。私は決して悲観的になってはいない。むしろ、これまで以上に指導の原点を真剣に模索している。初心忘れるべからず。しばらく御無沙汰していた教範を復習している。小さな(遠い)自分をいかに大きく(近く)子どもたちにみせるか。私はコクト−的手法を取り入れたいと考えている。そしてそれは決してハッタリとは違う性格のものだ。
 この一文を読んでくださる方の参考となるならば、とあえて自らの恥部をさらけだした次第である。

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■福島通信:その4 雪に想う(6年1月22日)

 福島に移って早や一年近く、なにしろ初めて迎える冬である。さすがに東京よりは格段に寒い。市内だから根雪になるほど降りはしないが、白く美しく輝く吾妻連峰から吹きおろす風に晴れた日でも風花が舞う。
 雪で思い出したが、若い頃、私は「雪山讃歌」の歌詞がきらいだった。「おれたちゃ町には住めないからに」という一節故に、である。町にも適応できない奴が、どうして「雪よ岩よわれらが宿り」なのか。町を食い詰めたから山へ行くのか。そんな驕りたかぶった軽薄な山男もどきだからこそ冬山の遭難が絶えないのだ、本当の山男ならこんな歌詞は歌わない、とその頃の私は本気で考えていた。名曲「いとしのクレメンタイン」のメロディであれば尚更だった。
 私だって別に岳人がきらいな訳ではない。気象庁勤務時代の昭和35年、私は気象庁山岳部に入るよう誘われた。たまたま気象庁の皇居一周マラソン大会で二年連続チャンピオンになったスタミナを見込まれたのだと思う。日本山岳会の新鋭登山家として嘱目され、いつも無口で笑顔を絶やさない山岳部長のOさんの「近い将来ヒマラヤを計画してます。一緒にやりませんか」という熱っぽい言葉に私の心は躍った。「でも私は身体も小さいし経験もないし……」「いや、有名な登山家でもあなたより小さい人が何人もいます。要はやりとげる気持ちがあるかないか、の問題です」「じゃ、お願いします。ぜひ基礎から鍛えてください」「じゃ靴だけは登山家の生命だから良いものを買いましょう」。翌日、八ヶ岳に行くというOさんと、下山したら私の登山靴を見立ててもらう約束をした二日後、私は彼の遭難を聞き、さらに二日後遺体が発見された。疲れきって倒れた仲間を抱えたまま眠るように雪の中に埋まっていたという。
 「そんな危ないことはやめてください」という妻の言葉に私は一言もなく従うしかなかった。
 今でこそ告白するが、当時自分の文学的才能に見限りをつけていた私はすっかり落ち込んで麻雀、パチンコそして競輪・競馬に明け暮れた。(幸か不幸かその頃私は酒を飲めなかった)昭和38年に息子が誕生、さすが無頼の生活に嫌気がさし更生したいと思った時に出会ったのが少林寺拳法である。同じ宿舎にいた初段のKさんからカッパブックス「秘伝少林寺拳法」を見せられ、誘われるまま宿舎の物置の中に古畳を敷き、半年間毎朝五時起きして練習した。体力的に自信がついた後、妻子を同伴して東京港道院に内山先生を訪ねたのが昭和41年、33歳のことである。 (この時のエピソ−ドは開祖のお耳に達し「少林寺拳法奥義」(東京書店)脚下照顧の項で紹介されている)【昭和50年初版発行】

  ある門下生にこんなエピソ−ドがある。彼は三十代半ばに少林寺拳法を知り、その
 魅力にひかれた。入門したいという彼に、奥さんは「おやめなさいよ。突いたり蹴っ  たりする年ごろでもないでしょう」と相手にしない。彼は一計を案じて「では一度だ
 け道院にいってみよう。拳法がどんなものであるか見るだけでいいから」といって、
 渋る奥さんを連れだした。練習場である体育館には、百名を超える拳士たちが集まっ
 ていたが、入口に立ったとき、その奥さんは急にあらたまって彼にいった。
 「これまでいろいろな集まりに行ったけれど、こんなにきちんとはきものがそろえて
 あるのは見たことがない。これだけで拳法のよさがわかります。さっそく、入門の手
 続きをとって修行してください」と、逆に彼を励ましたという。以来八年、彼は少林
 寺の虫となり、小学生の息子と共に修行に励んでいる。【140ペ−ジより抜粋】

 第212期生38名の最年長者で入門者代表として誓願文を読んだが、初段まで残ったのは私だけだった。練習にいくたびに相手をさがすのに苦労した思い出もなつかしい。そして、その後の私の自分史は少林寺一色に塗られることになる。弁解になるが、入門以来私は無頼な生活からきっぱり足を洗った。
 さて話を「雪山讃歌」に戻そう。「おれたちゃ町には住めないからに」を拳法に置き換えてみれば「おれたちゃ拳法しかできないからに」になりはしないか。「拳法バカにだけ
はなるなよ」と常に説かれた開祖なら「雪山讃歌」のこの一節をどう作詞されるだろうか。
「雪よ岩よわれらが宿り」はいい。とてもいい。問題はその後にある。あえて、ここに私の考えは書かないでおこう。暇な時にみなさんも考えていただきたい。考えることは楽しいし、脳の運動にもなる。まして「人間は考える葦」というではないか。
 それにしても人と人との出会いとはふしぎなものだ。もし私が登山家になっていたら、雪山に死んでいたかもしれぬ。開祖との出会いもなく、まして福島通信など書いてもいない。
 東北で迎えた初めての冬、降りしきる雪を眺めながら、ふとそんなことを想った。

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■福島通信:その5 ガダルカナルの亡霊(6年2月16日)

 2月5日・朝日新聞のコラム「窓」に「餓島」と呼ばれた地獄の戦場ガダルカナル島からの生還者・丹羽幼三さんの話が紹介されている。現役の会社社長である76歳の丹羽さんの頭の中に、一昨年の春から夏にかけてガ島で死んだ戦友の亡霊が住みつき、客と話をしているといつの間にかその戦友との会話になってしまう。やっと戦友の遺族を探し当て仏前で語りかけることでようやく亡霊は退散したという。しかもこれは一例に過ぎず、ガ島からの生還者で戦友の亡霊に会った人は他にもたくさんいるとか。半世紀も前の戦争が人の心に落とした影の凄まじさをあらためて思う。
 ガダルカナルは南太平洋ソロモン諸島の南端にあり、広さは四国の1/3程度のサツマイモ形の島である。1942年(昭17)7月、日本軍は南太平洋の前進航空基地をこの島に建設した。これに対して米軍は強力な武力援護のもと圧倒的な兵力でこの飛行場を奪取し、三度にわたる日本軍の再上陸作戦を制圧した。制空権を奪われ補給路を断たれた日本軍は武器・弾薬そして食糧もないままジャングルの中をひたすら敗走する。投入された兵力31,358人の内戦死・行方不明21,138人(直接戦闘によるもの約5,000人、その他は餓死・病死といわれる)。転進と呼ばれる撤退が終了したのが1943年(昭18)2月7日。肉弾戦に象徴される日本軍の精神主義は近代戦略の前にあえなく粉砕され、これを境に日本は敗戦に向かって急加速することになる。
 なぜ突然ガダルカナルなのか、というと、私には強烈な思い出があるからだ。
 私が気象庁の観測船勤務時代ガダルカナルの首都ホニアラに寄港したのは1979年6月。現地の港務代理店の所長の案内で戦跡を巡った。ブラディリッジ(血染めの丘)と呼ばれた激戦地では、上陸地点イル川から平地を前進してくる日本軍に、米軍は丘の上からまるでハンティングのように十字砲火を浴びせたという。「今でもこの付近には撃たれたままの姿勢の遺骨がたくさんあるはずですよ」とのことだった。事実、現地の戦争記念館に陳列してある日本軍の鉄かぶとには、ことごとく銃弾の貫通した穴がいくつも開いていた。迂回作戦のために切り開かれた「丸山道」(第二師団長・丸山中将の名から命名)も既にジャングル化し、人の侵入を拒否していた。私はただ言葉もなく立ちつくしたのを覚えている。
     夏草や つはものどもが 夢のあと   (芭蕉)
 なぜ、こんな話題を提供するのか。それは「信条」にある「我等は平和を守る真の勇者たることを期す」に係わってくるからだ。守るべき平和とはなにか。その定義を確立しなければ「真の勇者」にはなり得ない。極端にいえば、拳士として「信条」を唱える資格がないことになる。この小文が「平和」を考える小さなきっかけになれば幸いである。
 開祖は、かつて金剛禅を実践するために学ばなければならない三本柱を示された。つまり思想としての原点である釈尊の説かれた「原始仏教」、運動としての原点である「近代
史−特に昭和史」、そして宗門の行としての少林寺拳法の原点である「武道論の確立」の
三つである。
 私には、少林寺開創の動機となった敗戦時の満州で開祖が見聞された地獄絵図と、このガ島の悲惨な戦いが二重写しになって見えてくる。これは決して感傷ではない。
 歴史は風化する。みるみるうちに風化してしまう。だからこそ、繰り返し学ばなくてはならないのだ。拳士としての原点に帰ろう。人が人としていかに生きるべきか。平和とはいかなるものであるべきか。開祖の示された三本の柱を初心に帰って、も一度学ぼうではないか。そうしなければ拳法は単なる武道に堕ちてしまうと思うのだ。

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■福島通信:その6 明日への光(6年9月15日)

 小松左京さんのSF小説に「夜が明けたら」という短編がある。
 ある日突然、地球の自転が止まり、日本は太陽光の届かぬ裏側に位置してしまう。24時間に一回転し、その自転によって昼と夜、四季と季節風をもたらした地球は、今や月が地球をまわるように、太陽の周辺軌道を漂い始める。太陽に面した南米から大西洋中部の地域ではぐんぐん温度が上がり、日本を含む裏側は闇に包まれ気温はどんどん下がっていく。どちらも人間いや生物の生存を許さなくなるだろう、というところでこの話は終わっているのだが。明日に光のない恐怖が象徴的に迫ってくるのだ。
 ここで思い出すのが開祖の言葉がある。
 「どんなに辛くとも道は開ける。どんなに行き詰まっても出口は必ずあるんだよ。必ず光が見えてくる。がんばりなさい。どんな事があってもわしは出席するからな」
 昭和48年6月24日、開祖の直命を受けて全日本実業団演武大会が開催された。その進行状況報告のため帰山した折のことである。
 無から出発した我々実行委員は、江崎真澄先生から渡された「大正会」(大正生まれの政財界人の会)の名簿を頼りに顧問就任と、賛助金拠出のお願いに文字どおり東奔西走した。毎日のように職場を抜け出しては二人一組で大手企業を回る。相棒と顔を合わせると「まだクビにならないの?」というのが挨拶で、まさに悪戦苦闘の連続であり、それを知っての開祖の温かい励ましであった。私たちは百万の味方を得た思いで奮い起った。
 大会の前日、松木長実実行委員長と共に、神奈川・海老名ICで開祖の車をお迎えした。
「男の約束だから来たよ」と一言。握手をいただきながら仰ぐその顔色は悪く、声にも張
りがなかった。開祖の健康状態が最悪だったとは後で伺った。東京に向けて伴走しながら、
松木さんと私はどちらからともなく手を握りあって泣いた。「よかったな。これが本当の男の約束だな」私たちはその時、大会の成功を確信した。さらにこの大会は自治大臣だった江崎先生の肝いりで、まだ国交回復していなかった中国大使館招待という画期的なものとなった。この交流から開祖が健康を取り戻され、中国行きのきっかけとなったことを私は今でも信じている。
 しかしこの招待には当然右翼の襲撃が予想され、警視庁との打合せもあった。私たち実行委員にはあるル−トを経て購入した振出し式特殊警棒を配付し、当日貴賓席の周囲に配置したことも、今なら公表してもいいだろう。
 開会前、松木さんが「みんな命を預けてくれ」といったのも決してオ−バ−には聞こえなかったし、敗戦以来、私は初めてこの時命を賭けてもいいと思ったものだ。実業団の結束の固さの遠因はこの大会にあると思う。
 脱線してしまったが、ここで私が言いたいのは「人生は、やるか、やらないか、の二者択一なのだ」そして「実業団こそ少林寺の先兵である」という開祖の言葉である。社会人であれば、仕事と拳法との板挟みは日常茶飯事のことであろう。老兵としてすでに実業団
から離れた身であれば尚更感慨は深いが、今では「やる」を選んでその板挟みを切り抜け、
まだ現役拳士としていられることに誇りを持っているのである。
 光あってこその明日。どんな辛さの中にも出口はある。闇の中に更に大きな光を見出したいものである。

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■福島通信:その7 第一回全国実業団演武大会の周辺(1)(6年10月16日)

 前回の福島通信に、つい筆がすべって昭和48年6月24日、日比谷公会堂で行われた第一回全国実業団演武大会に触れてしまったが、走馬灯のように巡る思い出の中には、やはり特筆したい裏話が幾つかある。それを記すのも先輩の務めであろう。(本当は松木長實さんあたりに書いてもらいたいのだが)開祖の命を受けて大会準備委員会が発足した時、実は私は気象庁支部を持っていなかった。つまり実業団拳士の資格がなかったのである。(気象庁支部創設は翌年49.11.13)その私に「労働省副支部長」の肩書をつけて強引に大会副実行委員長の役目を押しつけたのは松木さんである。(彼との出会いについてはまた別に書くとして、松木さんも松木さんだがそれを認めた理事会も理事会だ)その頃、私には勤務先の気象庁で、抜擢に近い大阪への転勤の内示があった。それを聞いた時の松木さんの言葉は「断われ。少林寺と気象庁とどっちが大事か」という無茶苦茶なもので、そのくせ妙な説得力があったのも、今考えればおかしい。もちろん私は転勤を断わった。
 前に書いたように、江崎真澄先生の胆いりで、中国大使館招待の話が進みだしたのは、大会準備がかなり進行した時点であった。ところがここで問題になったのが笹川良一氏である。当時、開祖が笹川氏と義兄弟的な付き合いを始められた直後のこと。「笹川はいろいろ批判される男だが、青少年育成にかける情熱は評価してあげねばならない。ある意味では笹川とは肝胆相照らすことができた。彼は金をやるから使えというが、わしは一銭もいらんと言うた。少林寺は金で動くような組織ではない。金をもらえば必ず彼の取り巻きがこちらの組織に入ってくる。かれが名誉総裁となっている空手道連盟をみれば判る。それを突っぱねたことで、世の中には金で動かん組織があることを知った笹川が感動し私の手を握ってきたのだ」ということから、開祖の意を受けて笹川氏を大会に招待することが決まった後であった。しかしご存じのとおり笹川氏は右翼の大物で、戦時中の中国における彼の活動は戦犯にならなかったことが奇跡といわれたぐらいであり、当然、中国側の反発は大きく、一時はすべてがご破算になる雰囲気さえあった。
 たまたま東京新聞に「青少年育成にかける笹川氏」という記事でB&G(青い海と緑の陸地)運動が紹介されていた。私はさっそくその切り抜きを速達で開祖に送った。開祖から折り返し内山滋関東連合会理事長(当時はまだ都道府県連がなく関東で一本化されていた)に指示があり、多分江崎先生の案だったと記憶するが「大会の前半に笹川氏が出席、中途退場された後中国側が入場する」という苦肉の策で交渉することになった。開祖は信義上、笹川氏の招待を取り止めることはできないと言われ、それが駄目なら中国招待を断われ、とまで言われた。なにしろまだ日中国交が回復していない時代のことである。開祖の意を受け、内山先生に付添って、松木さんと共にまず虎ノ門の船舶振興会に笹川氏を訪ねた。笹川氏も男である。「よし。判った」と一言。しかし、私は開祖が前もって電話で根回しされたことを今でも確信している。
 次は中国大使館である。程志邁一等書記官、高復金二等書記官に内山先生が新聞記事を
示し、青少年育成に共通する少林寺と笹川氏の関係が一つの理想を目指してのものであり、
決して政治的にも思想的にも偏向したものでなく、笹川氏が中途退場された後、中国側に入場していただくことにより、建前としては同席したことにはならないということでご理解・ご了承いただきたい、と重ねてお願いした。通訳を通してのやりとりが続き、私と松
木さんは息を呑んで成り行きを見守った。最後に程一等書記官が、日本語で「判りました。
そういうことにしましょう。必ず出席します」と答えてくれ、われわれは驚くとともにほっとした。その後雑談に入って、程さんが日本に留学したことや、中国の人民服は戦時中日本人が着ていた国民服が原型であることなど、日本語で話がはずんだことも懐かしい。公式の場では、たとえ相手国語を話すことができても自国語を使うのが原則という外交の厳しさも垣間見た。逆に考えれば、中国側がそれだけ我々に心を開いてくれたということにもなる。
 こうして歴史的な時間差入退場が成立したが、それにしても危ない綱渡りではあった。また問題が大きくなっただけに、これは実業団だけでなく少林寺のレ−ゾン・デ−トルが問われる転機でもあった。開祖の直命を受けて内山先生率いる関東連合会が全面的にバックアップして下さったことも特記しておきたい。当時、自治大臣であった江崎先生の大臣室で打合せが何度か行われたが、いつも内山先生が前面に立たれた。    (つづく)

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■福島通信:その8 第一回全国実業団演武大会の周辺(2)(6年10月24日)

 大会前夜、雨が降った。絶望感が私の脳裏をよぎった。何しろ私は大会終了後、同じ日比谷公園内にある野外レストラン「パ−クセンタ−」で行われるレセプションの責任者であったから。晴れてさえいれば、緑に囲まれたアウトドアのレストランは最高なのだが、六月の梅雨期であればこれは一つの賭けであった。あえてここを選んだのは、警備上できるだけ中国大使館の行動範囲を広げないでほしい、という警視庁の強い要望に沿ったもので、他に選択の余地がなかったというのが実情である。
 しかし、幸いにも我々が会場に集合した頃には、うっすらと陽が射していた。しっとりうるんだ樹木の鮮やかな緑が、ほっとした私の瞳ににじんだ。ふと目を見交わした松木さんも同じ思いであったに違いない。
 開会まで、まだかなり時間があるのに、たくさんの人が続々つめかけてくる。最近の人はおそらく知らないだろうが、当時、何かの大会に開祖が出席されれば、その会場の入口の両側には常に何百メ−トルかの人垣ができ、合掌礼をもって送迎したものだ。そこいら
のアイドルとは違う荘厳さの中に華やかな熱気あふれる歓送迎が繰り広げられたのである。
 開祖が以前に「笹川は、これがうれしくて、わしといっしょに歩きたがるんじゃ」と笑っておられたが、この日も開祖と共に笹川氏は例の「片腕ぐるぐる廻し」のパフォ−マンスで、きげんよく入場されたが、所詮それも開祖の引き立て役でしかなかった。この時、糸山英太郎氏もいっしょに見えられた。
 こうして、大会は少林寺史上エポックメ−キングと言われた〈開祖の法話〉をメ−ンとする形式で幕を開けた。(因みに法話をテ−プにとって頒布したのは実業団が初めてである)第一部が終わると、歓声の中に手を振りながら笹川氏一行が去り、間もなく大きな拍手と共に中国大使館一行が舞台に登場された。輝かしい日中友好の幕開けである。
 日比谷公会堂の舞台の配置を簡単に説明すれば、観客席から見て左側に江崎先生を先導
として中国側の李連慶参事官、程志邁一等書記官、潘一鳳二等書記官、高復金二等書記官、
顔萬栄通訳官の五名が、そして右側には開祖、藤川一秋大会長、遠藤政夫副大会長、松平頼明先生など少林寺関係者が着席し、その中間で演武を行うことになっていた。
 ここで花束贈呈となるのだが、突然ハプニングが起こった。贈呈の役目を実行委員の子どもたちにやらせようと動員をかけたのだが、リハ−サルなしのぶっつけ本番とあって、子どもたちが舞台に出てから右往左往し、一人が順序を間違えたため李連慶参事官に花束が渡らなかったのだ。舞台の袖から覗いていた我々実行委員の顔から血の気がひいた。
 その時である。松平頼明先生が自分の花束を持って、ゆっくりと舞台を横切り、にっこり笑いながら李参事官に渡されたのである。客席から大きな拍手が沸き上がった。ある人はこれが見事な演出と思ったに違いない。演出であるとすれば、それはダ−マが松平先生に命じられたものであろう。我々はほっと胸をなでおろした。       (つづく)

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■福島通信:その9 第一回全国実業団演武大会の周辺(3)(6年10月24日)

 閉会を待たず、私は公会堂を出て、「日比谷パ−クセンタ−」へ向かった。副実行委員長として、大会のフィナ−レを見たい気持ちは山々だったが、その後のレセプション責任者としては、その設営の確認が優先する。閉会式はもう一人の副実行委員長の谷村斌さん(現秦野道院長)に委せた。
 何しろ思いもかけぬことに、このレセプションには中国大使館の五名全員が出席されることになったため万全を期す必要があったのだ。江崎自治大臣の要請で、当然警視庁も独自の警備体制をとったとは思うが、その詳細は判らない。少林寺としては内山関東連合会理事長の指示で、日比谷公園のすべての出入口はもちろん、野外レストラン「パ−クセンタ−」の周囲には大野木憲三拳士(現埼玉鶴瀬道院長)率いる学連拳士百数十人が目立たぬよう、しかし網の目のようにびっしり配置されていた。
 中国大使館招待がいかに国際的に重要な意義をもつものか、を少々オ−バ−に吹き込んだため、パ−クセンタ−側の対応も好意的で精一杯のサ−ビスを約束してくれた。庭園にセットされたテ−ブルに立食形式の料理が盛りつけられ、準備万端整ったのを確認して、
私は店の入口に立った。雨上がりの空に、夕映えのように彩られた雲が浮かんでいたのを、
今でも鮮やかに覚えている。私は、ひたすら一行の到着を待った。
 十六時半を過ぎた頃、松木さんを先導として管長、中国大使館員、江崎先生、松平先生、藤川大会長ご一行が談笑しながら公園の遊歩道をゆっくり歩いてこられた。(注:「開祖」
は遷化後の呼び名なので、ここでは当時の雰囲気を偲び「管長」と書かせていただく)関東の道院長たちの精悍な面構えが、きっちりその周辺を固めている。伊勢一・大阪伊吹道院長の顔も見える。全国から何人もの方が来て下さっているに違いない。
 合掌してお迎えする私に「ご苦労さん」と一言、管長が手をさしのべて下さった。温かく、やわらかな大きな掌の感触は、今でも忘れることができない。(その写真は今も私の家宝として居間に掲げてある。裏方の苦労をさりげなくねぎらい、私に大きな改革を与えて下さった師家。私が少林寺を続けてこられたのはこの写真があったからだ、と今でも思う)
 レセプションが始まり、歓談の輪が広がった。楽しそうにホスト役を務められる管長の顔色は良く、前日の疲れたご様子を思いながら、我々はほっと胸を撫でおろした。中国との友好交流が、管長の精神に活性を甦らせたと感じた。夕闇が迫ってきて、樹木に囲まれた会場を街灯スタイルのライトが淡く辺りを照らしだしても、なお歓談は続いた。会場の片隅の暗がりに佇みながら、抑えても抑えても涙がとまらない。終わった。大会は成功したのだ。これまでの苦労が音立てて流れ去るのを私は感じていた。帰宅して、私は丸一日なにも食べていなかったことに気付いた。

【終わりに】大会準備の段階では、どうしても昼間出て歩くことが多い。実行委員の活動
は、比較的クビになりにくい官庁関係者にウェイトがかかったのも自然の成り行きである。
特に工藤明(首都高速道路公団)、武田隆夫(農水省)両支部長には、本当に職を賭してまで動いてもらった。また谷村さんはじめ実行委員の皆さんとの出会いは法縁というしかない。「お神酒徳利」とまでいわれた松木さんと私のコンビは、同じ内山門下生であり、(谷村さんも)また当時千代田区大手町にあった労働省と気象庁が隣りあっていたことから、昼休み毎日気象庁の屋上で練習し、また松木さんが「雇用促進事業団支部」を発足させた時、私が自分の道院に休院届を出してまで主戦コ−チとして通ったことから始まる。法縁というよりも何か腐れ縁に近い感じもするけれど………
 大会のことに戻るが、我々が資金集めに苦闘しているのを見て、藤川一秋大会長(当時トピ−工業kk会長・故人)の「赤字が出たら補填してあげる。思い通りやりなさい」という鶴の一声で愁眉を開いた。最終的には二百数十万円ぐらいの赤字と記憶しているが、それはちょうどパンフレット制作費に相当する。大会特別賛助会員の依頼も「■福島通信:その6」に書いた「大正会」の名簿を頼りに、実行委員が分担して電話をかけまくった。何しろ相手が大物過ぎてなかなかラチがあかなかったが、最終的には江崎先生に一任してまとめていただいた。
 稿を終わるにあたり、藤川一秋先生のご冥福をお祈りすると共に、法縁によって結ばれた実業団の良き友に、あらためて心からの感謝を捧げる。
                                      合掌

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■福島通信:その10 怠らず努めるということ(6年10月29日)

 芥川賞作家・宮本輝さんの「道頓堀川」を読んでいたら「俺はなァ、偉うなろうとして頑張ってる若い奴を見てるのんが好きや。まあ何が偉いのんかは別として、大望を抱いてる奴が好きなんや」という登場人物の言葉が心に沁みた。そして、今年の10月「アメリカン・ヒ−ロ−の系譜」(研究社出版)で“第21回大佛次郎賞”を受賞した亀井俊介(東大名誉教授)を思った。(これはアメリカ開拓史以後、虚実とりまぜて存在した民衆ヒ−ロ−たちを豊富な資料を駆使して追跡した作品である。なお彼はこれまでも、その著書で“日本学士院賞”や“日本エッセイスト・クラブ賞”を受賞している)
 亀井との出会いは、お互い20歳の時。東京大学英文科の学生であった彼と、たまたま或る詩誌のコンク−ルで私が一位、彼が三位となったところから知り合い、それぞれ主宰していた同人誌を合併した。当時既に結婚していた我が家に、暇があれば仲間が集まったものだ。1959年彼がセントルイスにある私立ワシントン大学に留学してから、私も自分の才能の限界を見極めて文学から完全に離れた。文学というものは天才にのみ許されるもので、才能のないものが努力してもそれは所詮遊びにすぎない、と当時の私は本気で思
っていた。心の支えを失ったまま、「俺は無頼の徒だ」と自嘲しながら、私は競輪、競馬、
パチンコにうつつを抜かした。(その頃は後楽園に競輪場があった)もっとも家庭をぶっこわすほどやったわけではないが、心の中に満たされるものは無く、いつも薄ら寒い風が吹いていた。1963年秋に息子が生まれ、やっと私は立ち直った。そして精神的な拠り所を求めて少林寺に入門したのが1966年である。
 最初に書いた宮本さんの言葉が心に沁みたのは「(何が偉いのんかは別として)俺は俺なりに、なぜ大望を抱かなかったのか」という自己反省からだ。亀井がアメリカで悪戦苦闘しながらこつこつと勉強している間、私は何もしていなかった。努力した者と、しなかった者との落差を、今私は痛切に感じている。自分は一体何を生きてきたのか?という自問。亀井のような資質がなくとも、それなりの努力はできたはずなのに。
 強いて自分がやったことといえば、この後の30年近い少林寺拳法の修行だが、これとて開祖の遺教を継ぐにはほど遠い。まして62歳を過ぎて肉体が衰えてくれば「技」の教え手としての存在さえも難しい。「先生」と呼ばれた時の恥ずかしさ、辛さを、どう表現すればいいのか。「老兵は死せず、ただ消え去るのみ」という言葉が脳裏をよぎる。
 なぜ開祖は釈尊の教えを金剛禅の精神的支柱に取り入れられたのか。それは「怠らず努めよ」の一言に尽きると私は思う。因みにこれは釈尊の臨終の言葉である。仏教者であった宮澤賢治の「アメニモマケズ」という詩の一節に「ヨク ミキキシ/ワカリ/ソシテ
ワスレズ」とあるが、これはすべての事に通用する言葉であり、怠らず努めることの真髄であろう。
 実業団の若い拳士に言いたい。怠り、努めなかった私のような、前車の轍を踏むな。
(前の人がしたのと同じ失敗をするな)悔いの無い人生をかちとれ。そのためには自分なりの大望を抱け。そして怠らず努めよ。不肖な先輩としての私が自分の恥をさらけだしてまで言いたいのは、ただこの一言なのである。

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■福島通信:その11 心の水(7年1月5日)

 童話「星の王子さま」で知られるサン・テクジュペリが、アレクサンドリ−からカイロに向かっての夜間飛行中、サハラ砂漠に不時着したのは1935年のことだ。19時間で人をミイラにしてしまうという水蒸気を含まない砂漠の大気の中で、絶え間ない幻影に悩まされながら夢遊病者のようにさまよい、三日目にリビアの牧民に救けられた。サンテックスは与えられた水の容器の中に頭を突っ込み、息もつかず飲みに飲む。窒息するのを怖れて、牧民が休ませようと頭を引き上げても、また頭を突っ込む。
 「ああ、水!おまえは生命に必要なのではない。おまえが生命そのものなのだ」と彼は述懐する。
 ふと、そんなことを思い出すほど昨年の夏は、気象観測史上初といわれる暑さが一月以上続いた。たまたま就いていたのが日陰もない炎天下、直射日光に晒されながら、日がな一日立っている工事現場の出入管理の仕事だったので、休憩時間になると水を飲みに飲んだ。休憩といってもク−ラ−もないサウナのようなプレハブ小屋である。とにかく汗が出るから飲むのか、飲むから出るのか、一日中シャツの乾く暇もなく、人間の身体組成の大部分が水であることを変なところで実感した。周りに水を撒けば凌ぎ易いのだが、折からの水不足からそれも禁止されていた。
 しかし人間の身体はふしぎな適応性を持っているもので、定年までク−ラ−のきいた職場にいた自分が、夏バテもせず熱中症にもならず乗り切ってしまった。その代わり夏バテを防ぐために焼き肉など大いに食べた。9月の声を聞く頃には何となくズボンのバンドがきつくなり、体重を計ってみたらなんと2・も増えているではないか。夏ヤセならぬ夏ブトリである。気のせいか階段を駆け上がると息切れがする。これはいかん、と翌日からさっそくダイエットを開始した。
 ここで思うのだが、人間にとって「水」とは一体何であろう。単なる酸素と水素の化合物だけの存在なのか。サハラ砂漠に不時着した経験をサン・テクジュペリは名作「星の王子さま」に仕立てたが、その中で彼は王子さまに「水は心にもいいものかもしれないな」と語らせている。
 理想郷建設のための自他共楽の教え説かれた開祖を思う時、私はいつも「星の王子さま」
をダブラせてしまう。遠い星からやってきて、ほんとうの美しさ、真実の愛を教えてまた遠い星に帰っていった王子さま。少しイメ−ジ的にはごっついけれど、私にとって遷化された開祖はまさに実存した「星の王子さま」なのである。
 「法」は水なり。自分の心の中に、どんな水を蓄えるかが人間としての拳士の生きざまであり、存在意義であろう。そうでなければ、所詮人間は水分を多く含んだ単なる物体に過ぎないと思うのだ。

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■福島通信:その12 日常の中の武道−南十字星の想い出(7年3月5日)

 私は星座音痴である。40年以上に及ぶ東京暮らしで空を見上げることを忘れてしまっていた。今、星が美しく見える福島の地に住みながら、星座の名がさっぱり分からない。星座の本を見てもピンとこない。
 それでも私は星が好きだ。多分に、子どもの頃読んだ宮澤賢治さんの「銀河鉄道の夜」など、星をテ−マとした作品の影響であろう。(因みに私は賢治さんの詩によって、詩心にめざめた)
 カシオペア、サザンクロス、アンドロメダ、ペガサス、すばる、銀河、そしてたくさんの星座とそこに描かれた動物たち……少年だった私の夢は限りなく宇宙に向けてふくらんでいったものだ。中でも、私が見たいと思ったのは南十字星(サザンクロス)であった。太平洋戦争がたけなわの時代、多くの歌にも登場し歌われたこの星は、銀河の中心ケンタウロス座の南にあり、首星以下四つの星が美しい十字を形作っている。
 勤務先の気象庁経理課から、希望して海洋気象部へ移り、本土復帰間もない父島気象観測所に赴任したのは1970年。南十字星を見たい一心からであった。しかしここで私は自分の星座音痴に気付く。北緯28度の父島ではこの星が見えなかったからである。
 それならばと、海洋気象観測船「凌風丸」へ事務長として乗船したのが1979年、最初の航海は西太平洋海洋観測であった。開放360度の太平洋の真中で、振り仰ぐ夜空に輝く星たちのささやきを聴きながら、私は宇宙の神秘におののいた。初めて南十字星を見た感激は今でも鮮明に私の心象に残っている。赤道付近では、毎晩のように上甲板に出て飽きることなく眺めたものだ。この辺りのことをエッセイとして日本武道館発行「武道」(昭和54年7月号)に載せたことがある。ちょっとその一部を引用して見よう。

 『(前略)1月31日。船は赤道を越え、南緯1度・東経137度の終点に到着した。日中の気温は30度を超え、まさに常夏の感がある。はるか彼方にニュ−ギニアの島影が墨絵のように見えた。内地を出発して13日目に初めて目にした陸地である。これまでの航海で、私は太平洋戦争の空しさを痛感した。戦時中、この海域を多くの人がどんな思いで通り過ぎ、そして死んでいったか。この果てしなく広い海域で戦う無謀さをしみじみ噛みしめながら、宗道臣管長が常に言われる言葉を思い出す。
 「戦争をしてはいけない。人間としての英知があれば、どんなことがあっても戦争を起こしてはならない。そのためには少林寺拳法を通して立派な青少年を育成するしかない」 夜がふければ、南十字星が見える。「波のしぶきで眠れぬ夜は……」というラバウル小唄が浮かんできたりする。ラバウルも近い。また、この頃は無性に宗管長の言葉が思い出されてならなかった。「本当にすぐれた人間は数少ない。しかしそれに絶望してはいけない。メッキでもよいから努力せよ。一生はげないメッキならば、それは本物と同じ値打ちがある」
 この言葉ゆえに、私は拳法を続けてこられたのだ。実力もなく、たえず挫折しようとした自分の心にメッキしながら生きていく術を教えていただいたからである。(中略)この航海を通して、私は「日常の中の武道」の必要性を痛感した。確かに船内生活に拳法の技は不要である。しかし航海中の船という閉鎖された生活の中に、人の和を醸し出し、円満な人間関係を作ることができたことは、少林寺拳法によって培われた和協の精神が大いにものを言っていることは疑いない。(中略)日常の中の武道。武としての拳技を磨くと共に、たとえ拳の修行をしない人にも「自己確立」「自他共楽」の精神を浸透させることこそが真の武道なのである。(後略)』(因みに、これを書いた時、開祖はご在世だった)

 今夜も夜空を見上げながら、私の心の中に様々の思いが渦をまく。振り返ってみれば、私はささやかながら自分なりの夢を追うことができた、幸せな男だと思う。私を暖かく見守ってくださった多くの方に感謝しつつ、日常の中の武道への努力をこれからも続けたいと思うこの頃である。

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■福島通信:その13 ハルマゲドン(7年4月12日)

 「お魚博士」で知られた末広恭雄さん(故人)がかつて「人類を滅ぼすものは人類だ。『自然』は人類を滅亡させるのに決して迂遠な手段を選ばない……最も手近にある人類の『知能』と『私欲』こそ、自然の用いる人類滅亡の手段である」と書かれたことは前に紹介した。
 最近オウム真理教の幹部がハルマゲドンについて語っているが、まさにこの言葉こそその典型であろう。ハルマゲドンはイスラエルの一地方にある平原の呼び名であり、ヘブライ語で「破滅の平原」を意味する。従って地名として地図に載ってはいない。新約聖書の「ヨハネの黙示録」に、ここで世界を巻き込む全面戦争が起き、人類は破滅に向かうという「神」の予言が記されていることから、「人類最終戦争」を指す言葉となった。
 五島勉さんの現代的解釈によれば、ハルマゲドン大戦ではSFのスタ−・ウォ−ズに似た展開を示し、ミサイルや光線兵器、毒ガスや病原菌・ウィルスなどの化学・生物兵器とおぼしきものも登場してくる。
 仏教徒と称する教団が聖書にある「ハルマゲドン」を振りかざすのもおかしいが、地下鉄サリン事件、警察庁長官狙撃事件との関連からの捜査を受けている当事者としては、何か語るに落ちたという気がしないでもない。もちろん今後の司直の解明を待つとしても、毒ガス、病原菌、銃砲の製造の疑いまであるとすれば、何をか言わんやである。
 えせ宗教の恐ろしさ、それを信じる者の愚かさを痛感する。これらの新興宗教はカルト教団と呼ばれるが、最近、話題をまいたのはアメリカ・テキサス州においてFBIと5日間にわたる銃撃戦の末、火を放って75人が焼死したブランチ・ダビディアン(指導者デ
ビッド・コレシュ)で、これは「黙示録」を信じる教団であった。もう一つはスイスの
「太陽寺院教団」で、同時刻に2箇所で信者多数が集団自殺をとげた。教祖はセックスを儀式につかっていたとされ、教団からの遺書が翌日マスコミや警察に郵送されてきたという。犬死に、といえば犬が怒るか。
 人類を滅ぼすものが人類であるなら、人類を救うのもまた人類であろう。たしかに人は死ぬし、恐竜やマンモスのように人類もいつかは滅亡する。しかし、その終末思想がプラスであるかマイナスであるかに人間としての美学があると私は思う。ハルマゲドンの実現
を拒否し、反戦・平和を求めて行動することこそ宗教者の良心であり、存在意義であろう。
そのための道を釈尊の遺教に求め、切り開き、我々に伝えられた開祖の存在の大きさを今ほど強く感じる時はないのである。


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