このテンポの違いは、例えば乗り物に乗って窓から外を見ると、そこを歩いている人は止まっているように見えるのと似ている。それが普通の電車だとしたら、歩いている人が一歩、歩くか歩かないうちに通りすぎてしまう。それが新幹線だとしたらその人は、まるで止まっているかのように見える。
 だからきっとこの木の前を通る人は私たちが止まって見えているに違いない。私がコーヒーを飲もうと、カップに手を延ばしたその時に、ちょうどそこを自転車で通った人には、私は手を延ばしたまま止まって見える。なぜならその所しか見ていないからだ。それはまるでカメラのシャッターを切った時のように、その人の目に残る。そしてそこを早く通りすぎれば過ぎるほど、シャッター速度は速くなっていく。例えば自動車で通りすぎれば、百分の一秒に、飛行機で通りすぎれば千分の一、ジェット機で通りすぎれば一万分の一秒のシャッター速度で私を見ることになる。まさかそんなものがこの前を通りすぎるとは思わないが。
 私の方からしても、自転車でも飛行機でも、速くなればなるほど、見る時間は少なくなる。でも座っている私には、とてもそんなに速くシャッターを切る気にはならないから何も写らないけれど、自分で自転車や自動車や飛行機に乗って運転しているとすれば、おのずと早く見なければならないことになる。
 だから私から見ていると、つまりここに座って、ずっと木の前を見ていると言うことは、ここにカメラを据え付けて、木のある風景をバルブにして撮っているようなものだ。バルブとはシャッターを開けたままのことを言うのだけど、理論的にはいくらでも長い時間のシャッター速度が可能だ。この時の適正露光に関して簡単に言うと、フィルムにあたる光の量を一定にするために、シャッターが早いときは多くの光を採り入れるために、レンズの絞りは開けなければならない。遅いときは逆に絞らなければならない。だから絞れば絞るほど、シャッター速度は時間をかけなければ光の量は一定にならなくなる。
 そうすると、ここの前をいくら人が通っても写らない。そのバルブの時間をどの位にするかによって違ってくるけれど、もし一分間のバルブの時に、そこに誰かが三十秒間止まっていたとしても、その人は半分しか写らないことになる。身体の半分しか写らないというのではなく、その人の身体が半分透けて、向こうの景色が見えるということだ。この辺りでうろうろしていた人は、まるで陽炎のように薄くぼやけている。だからもしカメラの前を数秒で通り抜けるだけの人だったら、ほとんど写らないことになる。その木のある風景しか写っていないことになる。
 速く動くものから見ると、遅く動くものは止まって見える。遅く動くものから見ると、早く動くものは見えない。と言うことになる。
 シャッター速度が百分の一秒だと人は写る。しかし百秒だと写らない。百秒のあいだその人はじっと止まっていなければ写らない。そして絞りこんで時間をかけて撮影されたものは、その結果、被写界深度(簡単に言うとピントの合う深さ)がとても深くなって、すべての像に焦点が合うようになってくる。近いものも遠いものも、とてもはっきりと細かいところまで見ることが出来るようになる。
 スピードが速いと、その表面しか見ることが出来ない。言ってみれば、人の存在を確認するくらいが関の山だ。それが人形だとしても判らないかも知れない。遅くなればなるほど、見るものは表面から内面に移行していく。その人の顔の造りや、表情が見えてきて、そして止まって見ると、外側は消えて内側の奥深くまで見ることが出来る。つまりその人をじっと見ていると、その人の存在を感じることが出来る。例えば恋人同志のように、子供を抱いている母親のように、相手の気持まで知ることが出来る。何を考えているのか、何を感じているのか分かるようになる。
 自分の内側も同様に、じっと止まって見ていると良く見えるようになる。色々な想いや考えが、自分の内側を高速で行ったり来たりしているのが見えてくる。その速度をどんどん緩めて見ていくと、一つ一つがはっきりと見えてくる。そしてそれをじっと見ていると、やがて消えてゆく。なぜならそれは虚像だからだ。真実ではないからだ。それは外側の景色と同じくらい自分のものではない。
 真実とはレンズみたいなもの。それを透して見ると、そこに像が結ばれて見えてくる。見えるのはその結果であって、真実そのものではない。それは光そのものが見えないのと似ている。カメラで花を写してもそれは花ではない。花そのものではない。それは、その人が真実を透して集めた光の束なのだ。

 ちゃんと見るには止まって見る事しか方法はない。私たちはあまりにも速いスピードに、外側ばかり追うようになってきた。そしてその内側を知ることなく、通り過ぎてゆく。 ゆっくり止まってみると、今まで見えてなかったものが見えてくる。じっくり見ていると、今まで邪魔していたものが、一つ一つ消えていく。その時に初めて、時の静止している瞬間を感じる。時などなかった時に見えていた風景が見えてくる。止まって見れば見る程、よく見えてくる。
 ここに座っているあいだに私は何回シャッターを切っただろうか。

 空には綿(わた)のような雲と、
 それよりも遥か高いところに、
 羽根のような薄い雲が一面に広がっていた。
 空高く、たくさんのとんぼが流れて行った。
 一体何処へ行くのだろう。

          ※

 二、三日してから、またここに来てみた。おじさんはまた同じ所でラジオを聞きながら寝ていた。
 何人もの人がここを通り過ぎて行ったに違いない。でもおじさんには誰も映っていないのかも知れない。おじさんにとって、ここは誰もいない公園なのだろうか。

 また、二、三日して来てみると、おじさんはいなかった。そしていつも寝ていた場所に、いくつかの荷物がきちんと積んで置いてあった。きっとおじさんの物だ。何処に行ったのだろうか、自転車と共に消えてしまった。

 また、二、三日して来てみると、おじさんも荷物もみんな消えていた。そこには新聞がひとつ置いてあるだけだった。見ると、昨日の日付だった。
 天秤が傾いたままになっているようだった。私は向こうに何か載るのを待っているように座っていた。

 猫がやって来た。うすい茶色と白の若い牡だった。一声「ミャー」と言って、向い側の板の抜けた縁の下に座った。そして自分の体を舐めて、毛並みをそろえはじめた。ひととおり身繕いが終わると、私を見つめた。私たちは見つめ合った。そして彼は目をつむった。私もつむった。

 心地よい風が吹いて、この木の葉が擦れる音が聞こえる。
 遠くでひよどりの鳴く声が聞こえる。
 そして光が満ちてゆく。

 しばらくすると私たちは同時に目をあけた。いや、猫はとっくに目を開けて私を見ていたのかもしれない。そして彼はゆっくりと腰を上げて行ってしまった。ジャリ道まで出ると、後ろから歩いてきた人に追いかけられるようにして、足早に脇道にそれて、茂みの中へ去って行った。

 また、二三日して来てみると、もうそこには何もなかった。もしかしたらおじさんは旅に出たのだろうか、それとも家に帰ったのだろうか‥‥‥‥。
 今度は私がおじさんが寝ていたところに座ってみた。
 するとそこからは青々とした芝生が、垣根の向こうに広がって見えていた。

 あの木からすれば、私もおじさんも写っていないのだろうか。それとも少しは写っているのだろうか。
 手を広げた木はゆっくりと風に揺れていた。

 風がとても気持ちがいい。
 光がとっても気持ちがいい。

 時どき、カラスが何か追いかけっこをして騒いでいた。
 やっと涼しくなった風に、草や木が揺れている。
 四十雀が高い声で歌うように囀っている。

 たくさんの雀の集団が木から木へと移動している。雀たちが木にとまると、枝はずっしりと重みで垂れ下がった。それから少しのあいだお喋りをして、また飛び去って行った。すると、さっと枝が天に広がって、万歳をしているようだった。

          ※  

 久しぶりに公園に来てみた。もうあれから二ヵ月近く経っていた。もう公園の木々は葉を全て落としてしまい、裸になっていた。その所為で、とても見通しが良くなっていた。その突き当たりの所へ来ると、そこにあった垣根がなくなっていた。よく見るとその垣根は、杭を打ち込んで針金を張ってあるだけの、簡単なものだった。その針金に蔦(つた)が絡まっていて、それが垣根を造っていたのだった。だから、この東屋も裸にされたように、遠くからでもよく見えていた。
 その良く陽の当たっている縁側の前に、あの時の猫がいた。ちょこんと座って、まるで何かを待っているように、じっとしていた。そして私が反対側の縁側に座ると同時に、腰をすっと上げて茂みの中に消えてしまった。

 

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ブレッシング・レコード/杉浦 正
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