「相対性閑人論」(一) 上       大澄春生


 最近、公園の中で、今まで行ったことのない場所を見つけた。私の家から行くといちばん遠くにあたる東の端に、ポツンと建っている。自転車で行くと、十七分くらいかかる。公園の入口まで七分だから、その中を約十分間走っていることになる。地図で見ると、およそ電車で一駅の距離があった。
 そこはこの公園で初めて見る形の東屋だった。約十メートル四方の土台の上にちょこんと建っている。屋根は上半分が瓦で、下半分が銅の板で出来ていて、もうそれが銅だとは分からないほどに、黒く変色していた。屋根を取って上から見たとすると十字の形になっている。つまり正方形の四つのかどを直角に切り取った形になっていて、そのかどのところにそれぞれ柱が一本ずつ立っている。そして柱と柱の間に菱の形の文様に木が組み込まれていて壁を作っていた。つまり菱形の格子になっている。洒落た作りになっているが、その中の一つの壁はもう丸ごと格子が取り去られていて、ただの枠だけになっていた。
 この中には椅子とかテーブルとかいったものは置いてなくて、その代わり壁に沿って内側に幅四十センチくらいの縁側というか、板を張りだしてあった。そこに座れるようになっているけれど、それも所どころ剥ぎ取られていて、ただの枠だけになっていた。だから、ちゃんと座ることの出来る場所は限られてしまっている。そしてこのまん中には何もない。つまり幅一間の通りが家の中心で交差したようになっている。

 この休憩所はちょっと見つけにくい所にあった。西の方から行くと、つまり私の家の方から行くと、途中で道が突然なくなっている。幅五メートルの新しく舗装された直線の道は、途中で二十メートルくらいなくなって、その延長にまた道が出来ている。その間に何があるかというと、芝生が植えてある。いわゆる芝生の畑になっていて、雑草で覆われた垣根が囲うように、道をさえぎっている。そこで突然に道がなくなって向こう側は見えなくなっている。でもそこまで行ってしまえば右に行く道を発見することが出来るけれど、途中であきらめた人は見つけることが出来ない。垣根の近くまで来ないと、道は見つからない。
 そこを曲がって細い砂利の道に突き当たって、それを左に行って、またコンクリートの道に突き当たって、そこをまた左に行くとその休憩所が左手に見えて、西から来た道の反対側に出る。ちょうど芝生の畑をコの字に半周することになる。だから東側から来ても同じように垣根になっていて、途中で道はなくなっている。
 そこで座って見ていると、東の方から勢いよく自転車でやって来て、なんだこれはと言うような顔をしてこっちをチラッと見てから、あわててUターンしていく姿を何回も見た。きっと初めての人だとそのまま道が続いていると思ってやって来るのだろう。幅五メートルのちゃんと舗装された道が突然なくなっているなんて、誰も思わない。
 ある日ここに来る時、たまたま後ろを三台の自転車が並んで走っていて、その中の白髪混じりの男の人が、友人らしき若い男女にこの公園の案内をしていた。その声が聞こえてきたところによると、そこは農家の人が公園に売ってくれない土地なのだそうだ。彼らはそれを聞いて、へぇ、そんな事ってあるんだ、つまんないことしてるね。と話していた。もしそれが本当の話で、公園の管理者とこの畑の持ち主が争っていて、つまんない事をしていたとしても、私はそのつまんないことをそのままにして欲しいと思う。なぜならそれはとっても面白いからだ。もちろん争っていることが面白いのではなく、その道が面白いからだ。突然道がなくなっていて、意表を突いている。別に、こうなっていたからといっても公園の中の道なのだから、他にいくらでも通って行く道はあるし、誰も公園に来て急いでいる人などいないのだから、少し余計に歩いたってどおって事ない。公園に来ること自体、道草をするようなものなのだから。
 道草といえば、こんな光景をよくみる。黄色い帽子をかぶった小学生が、学校の帰りに四、五人でかたまって歩いている。けれど彼らは一向に足が前に進んでいかない。いったい何時になったら着くのだろうと、他人事ながら心配になる。友達とふざけあったり、お店をのぞいたり、犬にじゃれたり、わいわいやりながら歩いている。時には逆に戻ったりもする。せっかくここまで来たのに、と余計な心配をしてしまう。きっと親には寄り道をしないで真っすぐ家に帰りなさいと言われているのだろうけど、そんなことは忘れてしまっている。なんでそんなに時間がかかるのか大人にはわからない。それはどうしようもない。それほど道草は面白いものだ。つまらなければ言われなくても真っ直ぐ家へ帰るだろう。文字どおり、つまっている方が、つまんないより面白い。公園の道はくねくねと曲がっていて、何処に出るのか分からないぐらいの方が面白い。

 そこへ行くと土日を除いて、いつもおじさんが寝ている。どういうわけで土日だけいないのか分からないけれど、いつも決まった縁側の一辺に、イヤホーンでラジオを聞きながら寝ている。その横には明るい緑色の自転車が立てかけてあり、その自転車の前の篭には、水筒やら紙袋やら一杯積んであった。どうやら所帯道具一式を持って、自転車で移動しながら暮らしているようだった。どうしてこういう生活をしているのか分からないけれど、おじさんに直接聞くわけにもいかないだろう。
 でも、おじさんはちゃんと生活をしている。パックされた食べ物がそこにいくつも積んで置いてあるときがあるし、お酒や飲み物などは、どこかのスーパーで買ってきている。その事情は分からないが、自分の好きなように暮らしているみたいだった。

 私が何故そこが気に入ったかというと、そこに座って見る景色が、どことなく日本の景色ではないからだ。その建物の正面、と言っても何処がそうだかわからないけれど、東側に細い道をはさんで一本の木が生えている。木なんか公園だから、そこいらに幾らでも生えているけれど、その木だけはちょっと違っていた。そこから見る風景が、その一本の木によって、とってもいい雰囲気を醸し出していたからだ。その木は地面から幹が二つに分かれて伸びていて、その先のいくつにも分かれた枝には緑の葉が青々と繁茂していた。そのありさまが何かとてもリラックスしている。いわゆる私の「木」というイメージからは遠い。私は木と言うと直ぐに杉の木みたいなものを思い浮べてしまう。真っすぐ上にのびていて漢字の「木」みたいなやつだ。そういう木を見ると気持ちがしゃんとしてそれはそれで良いのだけど、そういう木とは違った斜め横に延びた幹が、何故かとってもゆったりとしているように見える。ちょうど「大」の字を逆さまにしたみたいに、空に向かって手を広げているようだった。

 この場所を見つけてからというものは、なるべくここで昼食にすることにしている。おにぎりを一つ握って、エビアンの小さな空きボトルに、山で汲んだ水を入れて、それから熱いコーヒーをポットに入れてきて、その木を見ながらここで食べる。それがとっても気持ちがいい。

 向こうの縁側にはおじさんが寝ている。そして、こっちでおにぎりを食べている姿は、この前を通る人には同じ仲間に見えているのかも知れない。ちょうど右と左の対照図になっていて、二人で一対に見えるからだ。‥‥‥‥そう思うと、とても変な気分だった。何か大きな天秤にのっているような、とても奇妙な気分になった。でもそれはどうしようもなかった。縁側の板が抜けていて、どうしても座る場所がここになってしまう。

 おにぎりを食べ終わって、コーヒーを飲みながら本を読んでいると、突然大きな音でラジオが鳴った。おじさんのしていたイヤホンが、寝返りを打った拍子にラジオから外れたようだ。おじさんは驚いて飛び起きると、ラジオを探してスイッチを切った。そしてあたりを見回すと、私と目が合った。ずっとそこにいたのか、と言うような目をして私を見ていた。私はそうだと言うような目をして、おじさんを見た。すると、やおら荷物を整理しはじめ、食べ残した物をしまって寝床を整えなおした。それでどうするかと思えば、また寝てしまった。
 私はふたたび静かな時を得ることが出来た。そしてもう一杯コーヒーをカップに注いで飲んだ。このコーヒーはバリ島の豆で、向こうではカピーと呼ばれている。ちょうど一年前バリに行ったときに生の豆のままで買ってきて、それを自分で煎っている。生の豆はずっと保存が効くからだ。独特の薫りがして少し苦いけれど、とても旨い。このコーヒーの味と、この目の前の木がとてもマッチしている。それできっと私は異国の感じがしたのかも知れない。
 その木の前を、もう何人もの人が通って行った。この道の先には東側の出入口があるので、結構人通りが多い。ちっちゃな自転車に乗った女の子と、その親らしい若い男女が通って行ったり、杖をつきながらやっと歩いているようなお爺さんが、五歩あるいては一息ついて、また五歩あるいては一息ついてという具合に、この前をゆっくりと通り過ぎて行った。まるでこの場所だけ、時間が止まっているように感じた。このテンポの違い。

 空にはトンボが舞っている。
 たくさんのトンボが高く
 青い空に舞っている。

                 ----- つづく。


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ブレッシング・レコード/杉浦 正
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