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●理不尽な死(2003.11.27付・長野市民新聞掲載・丸田 勉)
前回の執筆から2ヵ月あまりが過ぎた。一年の6分の1だから長いと言えば長い。その間にはいろいろなことがある。特に私には様々な出来事があり、今なお、落ち着かない日々を過ごしている。
その一つ。前回紹介した「気楽にやるさぇ・・・でもなぁ」の著者、鎌倉剛一さんが帰らぬ人となってしまった。末期癌の宣告を受けて一年半あまり。この時間は氏にとって永かっただろうか、それとも短すぎただろうか?
つい先ごろの11月21日から23日までもんぜんプラザ地下ホールで「いのち生命のメッセージ展」が開かれ、知人の依頼で私もちょっぴりお手伝いさせていただいた。
「理不尽に生命を奪われし者たちへのレクイエム」と題するこの会場には114体の等身大の人型オブジェが並び、その足元には靴やハンドバックなどの遺品、りんごを燭台にしたろうそく、胸には遺影とメッセージが展示された。
等身大の人型は、何者かに突然に命を断ち切られてしまった犯罪被害者たちの、まさしく形身(形見)である。それらのほとんどは交通事故と少年犯罪の被害者たち。
一人息子を飲酒運転の暴走車にひき殺された鈴木共子さんの発想で、2001年3月に始まったこのメッセージ展は長野開催で20回を迎える。悲しみのやり場のない被害者遺族の癒しの場でもあるが、同時に、理不尽な社会への怒りの表現の場でもある。私的な悲しみのつながりから生まれた、公的社会への問題提起でもある。
林立する真っ白な人型の片隅に、私はそっと鎌倉さんの小太りな人型を立ててみる。足元に置く遺品は・・・愛用のワープロだ。左手が不自由になっても、シフトキーに菜箸ほどの長さの細い棒をつけ、左肩で押しながら、右手でキーを叩いていたあのワープロ・・・。そして一冊の本・・・「気楽にやるさぇ・・・でもなぁ」。
著者鎌倉剛一さんは癌という病で亡くなった。しかし、私にとっては、理不尽に生命を奪われし・・・人である。
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●気楽にやるさぇ…でもなぁ(2003.9.18付・長野市民新聞掲載・丸田 勉)
前回お約束したK氏こと鎌倉剛一さんと彼の著である単行本の話をしたいと思う。
前回から1ヶ月半余りの月日がたつが、その間、鎌倉剛一著「気楽にやるさぇ…でもなぁ」は8月8日に刊行され、一千部あった本の山もあと数十部を残すのみとなった。出版に関わったものとして率直に嬉しい。
H書店長野店からは30冊の追加注文があったし、安茂里のM書店からは販売契約の申し込みもあった。増刷するかは否かは思案のしどころだが、商売ではなくいわば自費出版みたいなものだから、これでよしとすることが賢明かもしれない。
鎌倉さんは上水内郡小川村で鉄工所を経営していた。ホップ摘みの機械を発明したり、野菜、菊作りの名人でもあり「何でも出来る」ことが看板の多才な人だ。
そんな鎌倉さんが末期癌を宣告され、娘さんが住んでいる滋賀県のA病院で手術をしたのは去年の春のことだった。鎌倉さんは死を覚悟したというが、その後、抗癌剤投与を受けながら療養生活に入った。
その間に同級生に勧められ、自叙伝らしいものを書き上げる。それを手作りの冊子にまとめ、知人たちに送ったところ評判がよく、その感想が励ましとなって、鎌倉さんは主題をかえて、二作目、三作目と書き進んでいく。書くことが生きる張り合いになっているかのようだった。
それらをまとめ加筆したのが今回の本である。
日一日と身体を蝕んでいく癌と対峙しながら、死を見つめていかざるを得ない最後の日誌の部分はやるせない。動くことも侭ならなくなった身体で、鎌倉さんは今日も癌と戦っている。
本の残数が一冊ずつ減っていく毎に、せめて鎌倉さんの元気が増えていきますようにと祈っている。
本の問合せは「鎌豚さんの本」を作る会 電話026−269−3675
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●おたふくかぜ騒動その後(2003.7.24付・長野市民新聞掲載・丸田 勉)
前回、人騒がせなことを記したので、そんな時は、心配してくださった方々にその後の顛末をお知らせするのが、仁義かもしれない。
N病院には何度か通い、ほおの腫れは引いたが顔面の右半分の感覚が鈍くなってしまった。歯茎は抜歯のために麻酔の注射を打った時のようだし、ほおは人のそれのようで落ち着かない。医師は神経が圧迫されて損傷してしまったのでしょうと、神経を育てるという薬を2ヶ月分処方してくれた。「半年ぐらいかかるかもしれませんよ」
それから1ヶ月以上が経つが、何の変化もなく、口内も腫れたままである。
さて、同時期に現代の医療現場に疑問を感じた男が、私の知人にもう一人いる。かれこれ1年半前に末期癌の宣告を受け、手術後抗癌剤の投与を受けているK氏であるが、彼はその療養の雑記メモに次のように記している。
いつものように呼ばれて診察室に入る。担当医師が替わっていた。
早速カルテを開いて説明が始まった。「これまでの検査結果の経緯やデータによれば、抗癌剤投与による現状維持は不可能。無駄な治療は止めますか。それでも続けますか?」よく考えてみるとこれはまさに死刑の宣告ではないか。医者がなんと言ったって俺までも俺を見捨てたくない。
K氏は抗癌剤投与の継続を希望した。
期待の見出せないデータを並べられ駄目だと言われれば、いくら元気を出せと言ったって、元気の出しようがない。こうなれば自分で何かの希望を作って、お医者様や癌に真剣勝負を挑むしかない。
その後K氏は、再び肝臓の癌が大きくなっていると知らされる。
どうしてもお医者様の態度や言動に親切さや温かさが感じられないのは、病人のひがみなんだろうか?
激動の時代を豪放磊落に生きて生きるK氏の半生と闘病記が、来月一冊の本になって刊行される。
次回はそのK氏と本の紹介をしようと思う。
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●おたふくかぜ騒動(2003.6.14付・長野市民新聞掲載・丸田 勉)
耳下腺部が腫れ始めた私は、村の診療所で「おたふくかぜ」かもしれないと診断された。血液検査をしてその結果を診ないと断定はできないから、「かもしれない」中での治療で、お尻への注射と薬をもらった。
早く診察を受けてよかったと内心安心していたのだが、どうも様子が変だ。痛みは増すし、ほっぺたも大きく腫れて、口も開けられなくなってきた。熱も少々出てきた。
ただ事ではないと感じたのは、生憎の土曜日で診療所は休診、先生は遠出していていない。
夕方、隣町のS病院に電話をしたら、「今日の担当医は外科ですが、解熱剤を出すことぐらいならできると思います」との返事。痛みをこらえ、わらをもすがる思いで駆けつけた。
診察室に行くと看護婦さんが応対して、電話で医師の判断を仰いでいる。
痛みを忘れて、怒りを覚えたのはこの時である。
看護婦さんの私への応対はにやにやと笑いながらで、医師とのやり取りはゲラゲラ笑っている。被害妄想的に言えば、まさに「いい年をしたおっさんが、おたふくかぜなどにかかりおって…」と笑いものにしている。挙句の果ては「三日も我慢すればいいでしょう。解熱剤でも出しましょうか?」と看護婦。医師は電話の向こうにいるだけで、やってくる気配は無い。「診察してくれないのですね」と念を押すと「はい」との返事。
別の病院に行こうと私はS病院の門を出たが、どうにも怒りが収まらない。
そこで、取って返して、解熱剤を要求すると、医師は2階から降りてきて、不機嫌さを隠そうともせず診察室に入った。
患者の私を前にして、医師は何一つ診察をしなかった。私の身体に触れることも、問診すらなかったのだ。ただひたすらカルテに解熱剤を出す為の必要事項を書いただけだった。
これは現代の医療現場の一こまである。
こんな医師は希なのかもしれないが、今回に限らず、医療現場が人間を診るやさしさを失いかけているように感じる今日この頃である。
病院が相手にしたいのは人間ではなく、そこに巣食う病気という商品だけなのだろうか?と疑いたくなるのは、私だけではないようだ。
ちなみに二日後、私は長野のN病院に行き、細かな診察を受けた。「おたふくかぜ」ではなかった。頬の腫れは引いてきたが、いまだ耳下腺は腫れている。
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●二人の女性(2003.5.6付・長野市民新聞掲載・丸田 勉)
ここ二週間の間に、期を一にして米国からやって来た二人の女性と会った。
いずれも50代前半の女性たちで、偶然にも二人とも癌を患っていた。最初に会ったMさんとは十数年前にロサンゼルスで出会った。彼女は日本人で米国に渡り結婚。娘が一人で孫もいる。
今年はどうしても桜が見たくなって・・といって四月に突然やってきて、電話をくれた。
「救急車で病院に運ばれちゃった」
地下鉄の駅構内で動けなくなってしまったという。毎年そんな病弱な身体を押して東京に里帰りする。里帰りといっても、日暮里の、ホテルとは名ばかりで、外国人が長期滞在に利用する宿泊所に、身を寄せる。数週間滞在しても会うのは鎌倉に住んでいる友人一人だけだという。複雑な過去を抱えていそうだが、尋ねたこともない。
仕事で上京する機会に恵まれ、そんな彼女に会うことができた。以前会ったときよりも顔にしみが増えていた。
「せっかく桜を見に来たのに、外出できたのは一度だけ」結局二度も救急車に運ばれて、ただホテルの窓から下町風情を眺めていた。
「今回の来日ほど心細いことはない。いつ倒れるかもわからない身体は恐怖だ」彼女は自分の身体を持て余していた。「東京は好き。楽しいところだけど、それは身体が動ければのはなしね」と言って窓辺に飾った花を見た。
Mさんの離日の日はとうに過ぎたが、無事ロサンゼルスに着いただろうか?
もう一人の女性、Sさんについて語る紙面がなくなってしまった。
二人の女性いずれにも私は万華鏡を贈った。
鉄砲もミサイルも要らない。宇宙旅行もしたくない。ただ、彼女たちの命が一日でも永らえることを、いや、世の中が癌という病から開放されることを願ってやまない。
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●夢の実現・奥村先生との再会(2003.3.19付・長野市民新聞掲載・丸田 勉)
3月8日、それは私にとって記念すべき日となった。まるで初恋の人に会うかのような思いで、半世紀近い月日を越えて、奥村先生との再会を果たした日である。
奥村先生とは奥村秀雄先生で、中学校の教師を皮切りに小川中学校の教頭、柳町中学校校長として、また、長野市の教育長も長く歴任された長野県教育界の重鎮である。
奥村先生と私は師弟関係があるわけではないが、もし、「幻の恩師」という言葉があるとすれば、それに近い存在であるといえる。
先生はその日、小川村公民館で「充たされた日・日への念い…いま、ここを生きる…」と題する講演をされるために、小川村を訪れ、我が家を訪れてくださったのである。
公用車を降りた先生は近寄った私を見つめ「勉ちゃん?勉ちゃんだね」と両手を握りしめてくれた。私も万感の思いで先生の厚い手のひらを握りしめる。先生の温かい手のぬくもりが半世紀を越えて、私の胸を伝い、目頭が熱くなるのを禁じえなかった。
「勉ちゃん…」と呼ばれる私は、姉の手に引かれた小学生の私だったに違いない。8歳年上の私の姉は、須坂市立常盤中学校で奥村先生の教えを受けた。以後、姉は先生を慕い続け、「奥村先生」は教師の代名詞のごとく私の脳裏に刻み込まれたのである。
姉は乳がんで、38歳という若さでこの世を去った。半年後、私は姉が好きだった小川村に移住した。
奥村先生は小川中学校の教頭時代、校長の倉田春樹先生と組んで「小川讃歌」という歌を残して下さっている。いまやその歌は小川村村民の愛唱歌だ。その歌を聴きながら、奥村先生と一献を傾け、「重い荷を背負って生きていた」という姉の話をじっくりしてみたい。この夢もきっと実現することだろう。
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●長野市民の勇気(2003.2.6付・長野市民新聞掲載・丸田 勉)
長野市は最近になって周辺市町村に対して「合併参加は法定合併協議会からでもいいですよ」と合併申し込み期限を延長する意向を示してきた。その真意を詮索することはここではさし控えるが、財政難の長野市が、合併特例法による特典を狙わない手はないだろう。
さて、恥ずかしいながら、均霑(きんてん)という言葉に始めて出会った。柳田國男著「明治大正史世相篇」に著述されているとのことだが、「等しく利益を得る」という意味だそうだ。転じて、「均霑志向」とは、「遅れや損失をもたらしているマイナスの条件を是正しようという志向」ということになる。
その「均霑志向」は目標の対象並みになることを目指すため、結果として同じような施設・生活様式・便利さという意味の画一化を追求しがち。生活はそれなりに便利で豊かになる反面、地域的な個性を活かす、まちづくりの視点は軽視され、忘れがちになる・・と自由民主党インターネット委員会は著書でその功罪を指摘する。だから、地方交付税を見直し、考え直そうというのなら話はわかる。だが、現実は交付税という飴玉をちらつかせながら、市町村合併を迫る。
「都会に追いつくことはもうやめよう。魅力ある地域づくりを進めていくために必要なことは、都会と地域を一つのモノサシで比較する考え方をやめて、地域独自の新たな価値観を生み出していくことです」・・といいながら、一方では独自な生き方を追求する小規模町村を無視して合併を強要する。一貫性のないこの国の政治なんてこんなものである。
「寄らば大樹の陰」的発想で擦り寄ってくる町村に対して、「あなた方も独自な地域づくりを目指しなさい。それが日本のためですよ」と言ってやることも、長野市民の勇気というものかもしれない。
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●喝!市町村合併(2002.12.19付・長野市民新聞掲載・丸田 勉)
私の住む小川村は今、全国の市町村同様、「平成の大合併」の狂乱のさなかにある。
長野市の皆さんは編入(吸収)合併の、言ってみれば受入れの方だから、少し太って大きくなる位にしか思っていないでしょうが、周辺の町村は、自分のふるさとが失われるか否かの大問題なのです。
私は問題になっていることを嬉しく思っている。「寄らば大樹の陰」ですんなりと長野市に合併せずに、国の脅しに抵抗する村民を誇りに思う。村を見直し、地域を考えるいいチャンスともいえるからだ。
そもそも平成の大合併は、市町村が自ら望んで模索し始めたことではない。合併特例法を振りかざして、優遇措置という飴玉をちらつかせ、「自主」と言いながら、「強制」する政府の地方攻勢の一つなのである。そこには、住民の地域に寄せる思いや共同体意識を無視した、数(人口)と効率を優先する都市の論理がまかり通っている。
本来、市町村の合併は手段であって目的ではない。自らの市町村や地域が、将来に向けてどうあるべきかが問われて初めて考えられる手段である筈だ。が、今回の平成の大合併は国の財政破綻の責任の所在を隠蔽し、地方分権という錦の御旗を掲げて地方交付税を削減していこうとする政府の地方軽視の政策に対して、詰まるところ財政的に耐えられるか否かだけが問われてしまっている。そして「大きいことはいいことだ。小さいものはぶっ潰せ」とする、地方制度調査会の西尾私案の脅しに、耐えられるか否かである。
昨今、政治家も二世のほとんどは都会育ち。住んでみなけりゃわからない田舎は今、平成の大合併で揺れているというのに、地元出身の国会議員さんたちは一体どこへ行ってしまったんでしょうねえ。
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